決闘!小田代ヶ原


第六話

サイトウ
 

 

 イロハ坂を降りた遠峰は車を市内に向けて進めた。一般車が多くなり遠峰もスピードを落とした。恐ろしい運転から開放された光也達はほっとしていた。

 反対車線は車が列を作っている。もう渋滞が始まっていた。

 植野山警視は先程からきつく握っていた手をやっと離した。手の汗を拭きながら光也に向かって言った。

「裏男体林道を通ると出てくる場所はどこだね?」

 光也が答えた。

「裏見の滝に行く駐車場に続いているよ。国道まで約一分」

「うーむ。不意に襲撃するには最も適しているようだな」

「みんなそう考えるでしょ」

「他に何かあるのかね」

 光也は後部座席から手を伸ばして、地図を植野山警視の前につきだした。

「ここよく見て」

「どれどれ」

 遠峰がステアリングを片手で操作しながら言った。

「地図にはもう一ヶ所古河電工の辺りに出る道がありますが」

「遠峰さん、いつの間に見たの」

「まあね」

 植野山警視は地図をよく見た。確かに途中から道が別れている。

「裏見の滝ともう一ヶ所か・・・・・・」

「こちらの可能性も捨てきれませんね」

 光也は言った。

「叔父さん。犯人達を一網打尽にする良い方法があるんだ」

「えっ?」

「無線を使うんだ」

「無線?」

「盗聴の恐れがあるから使えんのではなかったかね」

「叔父さんがいまから無線で『裏見の滝』に警備の人を大挙差し向けるよう話をしたら」

「そりゃ、犯人達は別な方の道を取るだろう。ただし盗聴していれば、だが」

 光也が言う。

「ここはわざと『裏見の滝』に警備を集中させ、俺達は古河電工のそばの方に行きましょう」

「うーむ」

 植野山警視は考えた。光也は話しを続けた。

「もちろん、無線ではまだ俺達はイロハ坂を下りていないことにして」

「でも犯人達もおかしいと気づくのでないかね。警備が『裏見の滝』だけにいくなんて。

「いえ、犯人達はまだ俺達の存在を知らないしまさか無線の情報が操作されているなんてわかりっこないよ。警察の人も知らないんだから」

「うーむ」

「叔父さん、時間が無いよ」

 植野山警視はじっと前を見た。決断は早かった。無線機をつかむと話し始めた。

「わたしだ、特捜部の植野山だ。・・・・不審なバイクグループが裏男体林道を通過したとの未確認情報が入った。第八班と九班は『裏見の滝』に向かってくれ。・・・・・・・そうだ、我々はまだイロハ坂を下る所だ。・・・・・これから向かう・・・・・了解」

 植野山警視は遠峰刑事に向かって言った。

「遠峰君 古河電工寄りの林道に向かってくれ」

「はい」

 遠峰はまたいきなり加速した。後部座席では登美子が蒼い顔でつぶやいた。

「なんなのよ、もう・・・・・・」

 さすがに光也もフォローするセリフが無かった。

 車は日光宇都宮道路に続く道を旧道に左折した。そのまま町の中を通過する。

「遠峰さんそこ、左に曲がって」

「よしっ」

 急な勾配を上る。細く曲がった道をしばらく走った。そこには古びた住宅が立ち並んでいた。人気のない家々。誰も住まなくなってから何年かたっているようだ。雨戸が閉められ、庭には雑草が生い茂っていた。

「この先が林道です」

 遠峰は勢い込んで林道に車を乗り入れた。狭く曲がりくねった道がつづいている。すごい悪路だ。車の下回りをどこかぶつけた音が車内に響く。

 林道の途中で遠峰は車を止めた。

「遠峰さん、どんどん行こうよ」

「いや・・・・」

 遠峰は残念そうに言った。

「この車ではこれ以上無理だ」

「どうして?」

「四駆でなきゃ動けなくなってしまいます」

「君の腕をもってしても無理かね」

「ええ、峠仕様に仕上げたため車高をいくらか下げています。タイヤもオンロード用ですし。おまけに・・・・・」

「・・・・」

「道が崩れていて危険です」

 フロントガラス越しに前方を見た。右カーブの先が半分崩れて無くなっていた。とても走れたものではない。

「警視、ここは林道入り口で待ったほうが得策かと思いますが」

「うーむ。そうしよう」

 車をバックさせ林道を戻った。

「犯人達のバイクはどうしてるでしょうね」

「この程度の林道は楽勝さ。もう、すぐそこまで来ているんじゃないかな」

 光也が答えた。

 遠峰は人気の無い民家の陰に車を移動した。警視は無線を取り話始めた。

「あー植野山だ。そちらの様子はどうだ・・・・・そうか。そのまま待機せよ。・・・・・油断するな」

「警視どんな状況ですか」

「『裏見の滝』駐車場に到着したそうだ。今のところ何も起きていない」

「やはりこちらに来るか」

 遠峰はエンジンを止めた。静けさが光也達を包んだ。虫の声が寂しげに茂みの中から聞こえてくる。

「バイクの音がしたら一気に道を塞ぐ。そして逮捕だ」

「しかし、警視」

 遠峰が聞いた。

「ん、何だね」

「林道とはいえ通行止めのゲートがあるのにそう簡単に乗り越えて走れるものでしょうか」

 遠峰が疑問を口にした。

「それはだな」

 植野山警視が自信有りげに答えた。

「ジープだったら車に付いているウインチ≠ナゲートを引っ張り無理やりブッ壊すという手があるが今回はバイクだ。一気にジャンプするか一台づつ担いでだな運ぶ・・・・・・」

「違うよ、叔父さん」

 光也が口を挟んだ。

「営林署に事前に行って自然保護団体の野鳥の調査の為≠ニかなんとかいって許可をもらいカギを借りるのさ」

「・・・・・・」

「それで、コピーを作りまた営林署に返す。これで好きな時に出入り可能となる訳さ。ま、場所によってはタイヤレンチで回すとカギが開けられるタイプのゲートもあるけど」

「ほーっ」

「警視、感心してどうするんですか」

 遠峰が言った。

「どちらにしても首相達がイロハ坂を下り始めた。犯人達もそろそろやってくるぞ」

 遠峰はショルダーホルスターからコルトパイソン357マグナムを抜き、弾丸が装填されているかチェックを始めた。

 それを見ていた光也の目が輝きだした。

「遠峰さん、それマグナムじゃないの。パイソンでしょ?」

「おっ、光也君よく知ってるね」

「カッコイイじゃん、触らせてよ」

 光也が手を伸ばそうとした。

「こらっ」

 植野山警視がじろっと光也をにらむ。

「遠峰君」

「はい」

「署に帰ったら普通のニューナンブ38口径に戻すんだ」

「えーっ」

「わかったかね」

「・・・・・・はい」

 遠峰はしぶしぶ銃をしまった。

 虫の声が止んだ。

「あの・・・・・」

「しっ、黙って」

 何か言いかけた遠峰はあわてて口を閉ざした。耳を澄ます。

 かすかに音が聞こえてくる。単車の排気音!

「来たぞ!」

「一台。二台・・・・・・けっこういますね」

 遠峰は車のエンジンをかけた。

「遠峰君、奴らが姿を現したら道の真ん中に車をだせ」

「一気に行きますか」

「その前に」

 植野山警視は光也に言った。

「光也、登美子さん降りて」

「ここにいちゃだめ?」

「道を塞ぐのに使うからだめだ」

「わかった。じゃまにならないように隠れてるよ」

 光也は登美子の手をとって車を降りた。無人の家の陰に隠れた。 バイクの排気音が大きくなってきた。

 唐突に林道から十数台のバイクが姿を現した。みんな不気味な迷彩色の出で立ちをしていた。モトクロス用なのか頑丈そうなプロテクターを着けている。こちらに向かって走ってきた。

「今だ!」

 遠峰は車を家の陰から急発進させ道の真ん中に横に止めた。

 砂埃をあげてバイクは車の手前で止まった。やつらのヘルメットの中の表情は伺い知ることは出来ないが、異様な雰囲気を漂わせていた。

 植野山警視は車を降りた。そのまま歩いてバイクの前に立ちはだかった。

 果てしなく長いような短い時間が過ぎていった。警視は落ち着いた声で言った。

「おまえらの計画は失敗に終わった。」

「・・・・・・」

 男達は答えない。警視は続けた。

「林道を利用して襲撃してこようとはさすがにわたしも気づかなかったが、おまえらの逃げ道はもう無い」

 一人の男がバイクから降りてきた。ゆっくりヘルメットをとった。見覚えのある長髪にサングラス。

「あっ、おまえは!」

 遠峰が叫んだ。

 竜頭滝で襲ってきたカンフー野郎だった。

 風が草の茂みをザワザワ揺すった。

 カンフー男は何も言わず植野山警視を見た。

 警視は言った。

「おまえらの計画はお見通しだ。あきらめろ」

 カンフー男は何も言わない。

 けたたましい百舌鳥の鳴声がつかのま沈黙を破った。

「それとも、まだやる気か」

 無口な男は右手をゆっくり上に上げた。後ろのバイク達の排気音が高まる。

「ほう、まだ悪あがきしたいようだな」

 カンフー男の右手が下がった。数台のバイクが一斉に砂埃をあげて植野山警視に向かって突き進んだ。

「警視危ない!」

 遠峰は無防備の警視がバイクに引っ掛けられるのを想像し援護に向かおうとした。が、警視は右手を肩越しに背中に回すとコートの下から何か取り出した。木刀だった。そのまま上段よりもさらに剣先を天に向ける独特の構えをとった。

「何時の間に?」

 遠峰は驚いた。車に乗っていた時には持っていなかったはずだ。あんなもの背中に隠していたらシートに座れないではないか。

 まるでチェーンソーのような排気音をたててバイクが突進してきた。植野山警視の木刀が稲妻のように走った。

 鈍い音がして二台のバイクが転倒した。さらに別なバイクが攻撃をかけてくる。警視はすり足で移動しながら木刀を振った。

 たちまち草むらにバイクが倒れた。警視の振る木刀は、バイクのスピードに惑わされることなく一撃で倒していく。

 木刀を持った植野山警視の強さは目を見張るばかりだった。

「大丈夫かしら」 

 登美子は不安でならなかった。 

「あいつらが束になってかかっても叔父さんの実力の前には手も足も出ないさ」

 光也は登美子に小声で言った。

「叔父さんは古武道の達人なんだ」

「コブドウ?」

「それも実戦のね」

 光也は意味ありげに言った。もっとも光也もそれ以上詳しいことは知らなかった。植野山はそのことになると口が重いのだ。

 本当かどうかわからないが、その流派は剣道のように竹刀を使う稽古をせず真剣を使うのだという。抜刀術だけではないらしい。光也はもっと知りたかった。いつか聞き出してやろうと思った。

 植野山警視が振る木刀は流れるように無駄がなかった。光也は家の陰から警視の活躍を応援した。

 カンフー男が何事か合図をした。二人乗りのバイクが植野山警視に向かってきた。正面まで来たとき後ろに乗っていた男がバイクから飛び上がった。警視目がけて飛び蹴りを放ってきた。

 警視は下段から木刀を切り上げた。男は地面に落ちた。

「しゃれた真似を」

 植野山警視は木刀を持ち直した。

 一台が警視の足元を狙って後輪をテールスライドさせたまま突進した。別な一台が前輪を大きく上げたウイリーで警視の頭を背後から攻撃してきた。

「だーっ!」

 植野山警視は飛び上がり足元を襲ったバイクをかわした。空中で木刀を横に払い背後から迫った相手の前輪を打った。体勢を崩したバイクは足元を襲ったバイクにぶつかっていった。

 バイクは植野山警視の手にかかり次々と動きを止めた。草むらを埃っぽい風が通り過ぎていった。動いているバイクはもう一台もなかった。

 全身を頑丈なプロテクターで覆った、バトルスーツを着けた数人の男が植野山警視に向かってきた。何か格闘技の構えをとった。次々と警視に襲いかかった。プロテクターをつけていたが動きは素早い。

 警視は冷静だった。木刀で攻撃してくる男達のプロテクターを着けていない箇所を的確に狙った。数秒の後、男たちは警視のまわりで倒れていた。

 長髪のカンフー男はずっと静観していたが、ついに動いた。

「見て、長髪男が出て来たわ」

 登美子の声に光也は目を凝らした。

 警視の前に、カンフー男が出てきた。手に何か持っている。ヌンチャクのような武器だ。がよく見ると片一方の先に直角に伸びた鋭利な刃が付いていた。

「鎖鎌?」

 遠峰は犯行グループが何故拳銃とかを使わないのか不思議でしょうが無かった。入手出来なかったのだろうか。どちらにしても時代劇がかった戦いになってきた。

 植野山警視はカンフー男が、手に鎖鎌をもっているのを見て言った。

「おい、貴公」

「・・・・・・」

「ずいぶんふざけた道具を出してきたもんだな」

「・・・・・・」

 男は無言だった。

「まあいい、さっさとけりをつけてやる」

 警視はカンフー男と対峙した。

 男はサングラスの下でニヤッとしたようだ。鎖の先に付いた分銅というか鉄球を回し出した。

 風が草むらを駆けていく。バイクの排気音の消えた草むらは驚く程静かだった。サワサワと葉ずれの音がした。鉄球の回る音がだんだんと大きくなっていく。

 男はじりじりと間合いを詰めてきた。

「ハッ!」

 短い気合いと共に鉄球が飛んできた。

 警視のこめかみのあたりを掠めて、また男の手元に戻っていく。警視は動かなかった。不気味な音をたてて鉄球が回りだす。再び男は間合いをつめてきた。

「もっとこっちに来い」

 警視は挑発した。が、男は警視の間合いにまでは踏み込んで来ない。自分の鎖の長さと警視の木刀の届く範囲を計算しているのだろう。

 鉄球が飛んできた。警視は腰を落とした。鉄球は近くにあったバイクのタンクを直撃した。タンクは大きくへこんだ。中のガソリンが流れ出てきた。それを見て遠峰は青くなった。

 鉄球が襲った。警視の頭に当たったかと思われたが、警視は左に体を開いてかわした。だが足元の窪みに気を取られ一瞬バランスを崩した。

ブンッッ

 再び鉄球がうなりをあげて警視を襲った。避け切れそうにない。「警視、あぶない!」

 遠峰が叫んだ。

 かろうじて警視は木刀で鉄球をかわしたが、鎖はしっかり木刀に絡まっていた。男は両手で少しずつ鎖を手繰り寄せ始めた。鎌が不気味に光る。

「警視!」

 遠峰は気がきではなかった。このままでは鎖鎌の餌食になってしまう。

 じりじりと植野山警視はカンフー男に手繰り寄せられていく。木刀を塞がれた警視はどうみても不利だった。木刀を離せば素手で戦わなければならない。

 カンフー男が唇に笑いを浮かべた。

 鎖鎌が光った。刹那、警視は木刀を離した。力の均衡が破れた。警視は同時に走った。男は鎖鎌を振り降ろす。警視は何かを手に持った。鎌の一振りを身を翻してかわすとそれで男の腕を打った。

「うっ!」

 男の動きが止まった。続けて警視は肩を打った。男のサングラスが外れた。無念そうな顔のまま崩れ落ちた。

「叔父さん!」

「警視!」

 遠峰達が走り寄った。

「警視、ケガはありませんか」

「大丈夫だ」 

 植野山警視の手には五十センチ程の棒が握られていた。

「警視その手に持っているのは?」

「ああ、これか・・・・・・」

 光也が代わりに答えた。

「一脚だよ。俺の使ってるのを貸してあげたのさ」

「一脚?」

「カメラで撮影に使う伸縮するやつ」

「なるほど、三脚じゃなく一脚か」

 遠峰はうなずいた。

「でもいまのでキズだらけになっちまった」

 警視は一脚を眺めて言った。

「いいよ別に」

「?」

「代わりに叔父さんにジッツオの買ってもらうから」

「もしかしてかなり高いのでは」

「まあそれはあとでゆっくり叔父さんと交渉させてもらうから」

 光也が言った。

「そんなことより遠峰君」

「えっ」

「早く連絡を取るんだ」

「はい!」

 遠峰は車に向かった。

「やいそこの!動くな」

 遠峰はマグナムを素早く抜いた。草むらに逃げようとしていた男に向けた。男は銃を向けられて不自然な格好のまま凍りついた。

「じっとしてないと痛い目に会うぞ」

 連絡を取りながら遠峰はつぶやいた。

「あーあ。今回もマグナムの出番無かったなあ」

 やがてパトカーのサイレンが聞こえて来た。犯行グループは逮捕されていった。

「警視、橋本田首相達は無事東照宮に着いたそうです。今連絡が入りました」

 遠峰が言った。

「やれやれ、とりあえず犯行は阻止できたな」

 植野山警視はぼそっと言った。さすがに疲れたようだ。

「遠峰さん」

「光也君なんだい?」

「俺達もう戻ってもいいでしょう。とりあえず首相達も東照宮に着いたんだから」

「あ・・・・・・ああ。ちょっと待って」

 遠峰は植野山警視と他の仲間と何事か話していたがしばらくして戻ってきた。

「光也君、君にも色々と聞きたいことがあるのでもう少し待っていてくれないかな。もちろん君達のペンションまでは送らせてもらうから」

「・・・・・・ま、しょうがないか」

 登美子がやや疲れた顔で言った。

「早く戻りたいわね。ペンションに」

「本当。撮影どころじゃなくなってしまった」

 しかし、光也達が事情聴取から開放されたのは昼に近い時間だった。それから遠峰の用意した車で戻ることになった。が、なにせ上りの第二イロハ坂が、一番渋滞する時間帯にぶつかったため少しも進まない。

「遠峰さんもせめてパトカーで送って欲しかったよな。サイレン鳴らして。そうすりゃ二、三十分位で着くのにさ」

 すきっ腹の光也は不機嫌だった。

「いやよ、わたしあの人の運転する車に乗るのはもうごめんだわ」

 登美子も疲れた口調で言った。

「・・・・・・同感」

 イロハ坂を上っても渋滞はずっと続いていた。

 結局二人がペンションに戻ったのはすっかり辺りが暗くなってからだった。

  

 

「登美ちゃん」

 光也は声をかけた。

「・・・・・・」

 ペンションに着いた登美子は無口になっていた。

「今日はめったに見られないもの見れたしいいじゃないか」

「・・・・・・」

 登美子のヘソは曲がったままだった。無理もない。最初は面白がってついてきたのだが事情聴取で根掘り葉掘り聞かれ、その後大渋滞で飯も食えずやっと戻ってきた、と思ったらもうすっかり日が暮れて。これじゃ誰だって嫌になるというものだ。

「あれでも叔父さん達が早く帰れるように面倒みてくれたんだからしょうがないよ」

「・・・・・・」

「とにかく夕御飯食べに行こう。きっと美味しいものがあるよ。さあ」

 なんとか食堂に連れていく。美味しそうな料理が用意されている所だった。

「ねっ、登美ちゃんどう?」

「う、うん」

 食事が始まると登美子の機嫌がだんだんと直ってきた。光也は努めて楽しい話題だけ話した。

 部屋に戻った光也は明日の計画を立て始めた。

「昨日、撮るには撮ったが殆ど下見というかロケハンというかその程度だし、今日は全く物に出来なかったし。残るは明日か・・・・・・」

 勝負を受けたからには、せめてある程度納得のいく作品を出したかった。勝てる自信は無かったけれど、自分でどの程度の写真が撮れるのか試したかった。一応狙いは決めてあった。自分で決めたテーマは『光』。秋の陽射しを活かした作品作りをするというのが狙い。

 光也は地図をテーブルに広げた。 

 光也の案はこうだった。最初に早朝の小田代原に行き霜の降りた草紅葉を撮る。続いて戦場ヶ原に行き朝の光を受けた湿原を撮影。

 車に戻って湯滝、光徳沼、竜頭滝を撮影。午後にも昨日目星をつけておいた場所を撮る。

 さっき聞いた天気予報では晴れとなっていたから、まあとりあえずはこの狙い通りでいけるはず。

「問題は・・・・・」

 一つ気がかりがあった。登美子のことだった。

「俺が撮影に引っ張り回したらまた機嫌損ねるだろうな・・・・・・」

「登美子の行きたい所や時間を考えると予定の半分位しか無理かな・・・・・・」

 と、光也がひとりぶつぶつ地図を見ながら言っているとノックの音がした。

「どうぞ」

 登美子が入ってきた。機嫌は直っているようだ。表情が明るい。窓辺の椅子に座った。

「今日はご苦労さん」 

 手にしていた缶コーラを一つ光也に渡した。

「おっ、サンキュー」

 登美子は外を見ながら言った。

「明日のことなんだけどさ」

「明日?」

「光也。明日こそ傑作をものにしなきゃいけないのよ」

「まぁ、そりゃわかってるけど」

「それでね」

「?」

「わたしがいない方が撮影に専念できるでしょ?」

 痛い所を登美子は突いてきた。

「そっ、そんなことないよ」

「いいのよ、無理しなくっても」

「べっ、別に」

 光也は狼狽した。登美子は窓の外を眺めながらコーラを飲んだ。

「光也、明日一日中わたしのこと気にしないで写真撮っていていいのよ」

「えっ?どして」

「わたし、ペンションのオーナーにいろいろと案内してもらうことにしたの」

「オーナーに案内?」

「いろいろ観光スポットっていうか穴場を案内してくれるのよ。もちろん鬼怒川のあたりもよ」

 光也の頭にペンションのオーナーの顔が浮かんだ。歳のわりに若い子との会話がうまかったな。

「ははっ・・・そう・・・まさかふたりきりじゃないよね」

「残念ながら他の女の子達といっしょよ」

「・・・・・・」

「さっき食事のあと明日の話になってね。関西からきたっていう子達がオーナーに相談してたのよ。それにわたしも便乗することにしたの」

「・・・・・・よかったじゃないか・・・・・・ワールドスクェア≠ニか江戸村≠ニか連れてってもらえるんだろ?」

 光也は登美子の顔色をうかがいながら言った。うかつなことを言うとどうなるかわからない。だが意に反し彼女はさっぱりしていた。

「そんな訳でわたしは明日勝手にしてるから。・・・・・・光也良い写真撮ってよ」

「あっ・・・・・・ああ」

 登美子は立ち上がった。

「わたしお風呂はいって寝るわね」

「俺も明日早いから寝るよ」

「じゃあ」

 ドアを閉めた登美子はつぶやいた。

「光也ったら、わたしの気持ち少しもわからないんだから」

 光也は閉まったドアから視線を手元のコーラに移した。

「まあ、これで明日は撮影に専念できるぞ。登美ちゃんにはちょっと悪かったかな」

 光也は缶コーラのプルタブを引いた。プシュッ

「うわっ!」

 勢い良く中身が吹き出した。強く振ってあったらしい。顔にかかった飛沫を拭きつつ光也は思った。

「登美子の奴、やっぱり怒ってるかな?」

   

 

「こっ、これは・・・・・・」

 夜明けの小田代ヶ原で光也は絶句した。

 湿原に霜は降りていなかったのだ。

 曇天。

 明るくなり始めた空にはどんよりとした灰色の雲が厚く一面に広がっていた。

「・・・・・・なんてこった。」

 嫌な予感にとらわれながらも小田代原への道を急いできたのに。星は出ていなかった。どうも夜半から雲が広がったようだ。そして予感は的中した。霜は天気が良くないと降りない。露もつかない。

「・・・・・・」

 光也は自分の立てた計画が早くもつまずいたためあせった。とりあえず予定していた辺りをひととおり歩いてみた。露も霜もついていない草紅葉は妙にカサついた感じがした。

 朝日に霜が溶けていく瞬間をイメージして撮影方法を考えていたため、他への切り替えがうまく頭に浮かばなかった。

 いまさら天気予報に文句をいっても始まらなかった。標高の高い場所は天候が変わりやすい。ここは天気予報でいうところの一部山沿い≠ネのだ。

 やはり自分のイメージを狙っている人は多いようだ。例の白樺を狙ってカメラを構えていた人の中にも朝日が期待出来ないとみるや、機材を片づけ始める人がけっこういた。

「こうしていても仕方ない、場所を変えよう」

 光也は脱力感を払い除け戦場ヶ原に向けて歩きだした。

木道を歩きながらあちこち見回す。光線があると無いのではこうも情景が変わるものだろうか。

二日前ここを歩いたときは被写体の陰影がはっきりとわかり、空気さえ写りそうに見えた。が、いまはぼんやりしたくすんだ色合いにしか見えない。あれほど鮮やかだった木々の葉さえ灰色の空に紛れ込んでしまって、その存在を隠しているかのようだ。

 湯川に沿って戦場ヶ原の木道を黙々と歩いていく。光也はまだ一枚も撮ることが出来なかった。それどころかカメラをバッグから取り出す気力も無くしていた。

 しばらく歩き続けた。状況は変わらない。三脚を置いて川岸の木の下に腰を降ろした。遠く上流の方の釣り人が描くフライフッシングのラインをなんとなく眺めた。

「いっそ雨降りだったらな・・・・・・」

 光也はつぶやいた。

 雨で濡れた紅葉は美しい。水滴のついた木々の枝、雨にけむる森林。しっとりとした風景が撮れる。霧のかかった山々や川も趣がある。しかし空の雲はただどんよりと暗いだけで雨のふる気配も、ましてや雲の切れてくる気配も無かった。

 気がつくと後ろに誰かいた。

「ずいぶん苦労しとるようじゃな」

「えっ?」

 光也は振り返った。

 あの老人だった。ハッセルを肩から下げ飄々とした感じは二日前と全く変わっていなかった。

「あっ、秋山さん!」

 光也の傍らにやってきた。年季の入ったドンケのバッグを降ろすとやや離れて木道の端に腰を降ろした。

「どっこいしょっと。おう、昨日は見かけなんだがどこかで粘っておったのかい?」

「いえ実は・・・・・・」

 光也は二日前から昨日にかけての橋本田首相日光訪問の一件をかいつまんで話した。

「ほう・・・・・・昨日ニュースでちらっと見たが。なんだ、それに出とったのか」

「別に出てたわけじゃありません。」

「昨日は撮影の方は出来んかったというわけだ。」

「え・・・ええ・・・」

 まあほとんど自分の好きで事件に首を突っ込んだのだから写真が撮れない言い訳はしなかった。

「今日その分を取り返そうと思って、張り切って撮影するはずだったんじゃろう」

 じいさんは光也の痛い所を突いた。

「・・・・・・そうなんだけど」

 老人は静かな川の流れを見るとはなく見ていた。じっとしていると寒かった。後ろの木道を誰かが通り過ぎる。

「おぬしが何故撮れないか」

「あの・・・・・」

 老人は光也の言葉を遮った。そして空を見た。

「わかっとる。この天気だ」

 図星だった。老人は続けた。

「ここに来てから頭の中に、晴れた時の撮影方法ばかりを詰込み過ぎたからじゃ。惑わされることはない。晴れた日というのは風景のあくまでも一面でしかない。本来のおぬしの撮影はそんなものではないはずじゃ」

 このじいさんずいぶん俺のこと知っているみたいに言うな。光也は思った。

「でも、まだ俺の写真、一度も見たことがないのにどうしてそんなことわかるんです?」

 老人は余裕で答えた。

「わしにはわかる」

「・・・・・・」

「光也君、おぬしを無理やり写真対決に巻き込んだ手前何も協力しないというのもあんまりだろうから、ちょっと手伝ってやるよ」

「けっこうです。いまさらおじいさんに手伝ってもらって撮った写真出したりしたら俺の立場が無いし」

 光也は虚勢を張った。

「別にわしが細かく指導した写真を出すわけじゃない」

「えっ?」

「ちょっとアドバイスするだけじゃ」

「・・・・・・なんだ」

 老人は川を見ていた。黄色く色づいた葉が一枚流れていった。

 老人は口を開いた。

「おぬしの使っているフィルムはなんじゃ」

「フジのリバーサルフィルム、ベルビアだけど」

「特性はよく知っているじゃろ」

「もちろん。えぇーっと微粒子、低感度、そして一番の特色として派手目な発色」

「弱点は」

「商品撮影の場合なんかその発色特性に好みが別れる」

「それと」

「んー、晴天では被写体により実際より派手に映る傾向がある」

 じいさんは目を細めた。

「そこまでわかっていれば、おぬしにとって今日の状況は必ずしも悲観すべき状態でもないことが分かるんじゃないかな」

「うーん・・・・・・」

 光也は考えた。俺の使ってるフィルムはフラットな光線状態でその真価を発揮する。曇りの日の情景。普段は陰になって目立たない部分が見えてくる。

「美しいと感じる風景が四季折々の中にあるように、感動出来る写真は晴れた日ばかりではないぞ」

「・・・光と影・・・か」

 光也の目が輝いた。

「そうか、わかったぞ!」

 光也はやおら立ち上がった。バッグを担ぐと三脚をつかんだ。

「光也君、曇りの日の日光には晴れた日や雨の日では見つからない素晴らしい風景がたくさんあるぞ。そんなチャンスに逢えるなんてとてもラッキーだと思わんかね」

「撮りたいものが見えてきた!俺、絶対ものにしてみせるよ。秋山さんありがとう」

 光也は既に歩きだしていた。

「おい、待たんかい!」

 じいさんが呼び止めた。

「えっ、なんですか」

「今日の夜には帰るんじゃろ」

「えっええ」

「その前に連絡しろよ」

「じゃ、そうします」

 光也は歩きだした。

  

 

 光也は木道を湯滝方面に向かって進んだ。

 戦場ヶ原湿原の中は枯れた木が灰色の空に向かって数本立っていた。風は無かった。やがて林の中に道は入った。

「見えてきたぞ」

 光也にはさっきまで少しも気付かなかった被写体が見え始めていた。晴れた日の視点でずっと見続けていたため気がつかなかったのだ。

 光也は足を止めた。小さな川に紅葉したカエデの木があった。静かな流れだった。しばらく見ていたが道端に三脚を立てた。バッグを降ろす。愛用のキャノンEOS100を取出し、70〜210ミリズームをセットし三脚に取り付けた。

もう少し近づいて構図を決めたい所だが歩道を踏み外していくわけにも行かない。多少のフレーミングの修正はズーミングで変更出来る。

「こういう時はズームレンズで良かったぜ」

 単焦点レンズも欲しかったが、予算と使い勝手でズームレンズを光也は選んだ。ファインダーの中には、流れの上に紅葉したカエデの葉が折り重なるように映っている。

光也は偏向フィルターを取出しレンズの前面に取り付けた。余分な光をカットして画面にコントラストを出すためだ。フィルターの先端を回転させて効果を確認する。露出を決め、画面に暗い部分が多い為露出オーバーにならないようにマイナス補正をした。

リモコンレリーズでシャッターを切る。ファインダーからの逆入光で露出が狂わないように手でファインダーを覆った。

パシャッ

 シャッター音が静かに空間へ消えていく。続けて何枚か構図と露出を変えて撮った。

「よし」

 光也は手応えを感じながら次の場所へ向かった。もし晴れていたら今の場所はカエデの紅葉と川の流れの両方に露出は合わせられなかっただろう。

フィルムに再現出来る露出の幅より明暗の差があり過ぎた。曇りで光がフラットなため川の流れと紅葉の組合せが可能だった。探せばまだいくらでもあるはずだ。

 光也は歩いた。撮影できそうな場所を見つけた。

 川の岸に紅葉した落葉が何枚も重なっていた。さざ波で揺れている。

 光也は近づくとレンズを広角ズームに替えた。遠景まで入るように構図を決め三脚にセットした。ピントも遠景から岸辺の落葉までシャープに写るように絞り込んだ。後はPLフィルターをつけスローシャッターに設定してシャッターを切った。

岸辺で揺れる色づいた落葉が、スローシャッターでブレて動きを感じさせてくれるはずだ。ここも光の照度差の少ない、曇りならではの遠景と落葉の組合せだった。

 光也は撮影を続けた。

 時計をふと見るとけっこうな時間になっていた。

 光也は湯滝までこのまま進もうか考えた。しかしそうすると車まで戻るのにバスに乗るかまた徒歩で来た道を戻らねばならない。

ハイキングならそれでも良かったが時間がかかりすぎる。腹も減っていた。結局戻ることにした。

  

 

 赤沼茶屋の駐車場に戻った光也は車に乗った。

戦場ヶ原の駐車場まで移動した。そこにある土産物屋で山菜うどんを食った。食べながら壁にかけてある地元の写真家の撮ったらしい奥日光の写真を眺めた。どれを見ても日光の美しさが凝縮していた。

中判か大型カメラで撮ったようで全紙の大きさにもかかわらず非常にシャープで繊細だった。光也は不安になった。

「あいつら、そういえば二人が中判だったな。もうひとりはコンタックスだし・・・・・・」

 しかしすぐに気を取り直した。

「今回は四切の大きさだ。それに中身で勝負さ」

 光也は車に戻った。光徳沼に向かうことにした。運転しながら助手席のあたりが妙に寂しいことに気が付いた。

「登美子のやつ今頃どうしてるだろうか」

 本来なら三日間でそれなりにその辺を見て回るはずだったのに。

光也は登美子の携帯に電話しようかどうか迷った。

「変なじいさんと関わったばっかりに写真勝負になっちまった。それに叔父さんに会ったのが決定的だったな。完全に予定が狂っちまった」

 橋本田首相の件は一応納まった。けど光也は例の竜頭滝に残されたカメラが気がかりだった。

「襲撃した犯人の中に主犯はいたのだろうか。絶対に地元に詳しいアマチュアカメラマンが関係していると思うんだけど」

 車は戦場ヶ原を右折した。林の中を走る。光也はちらっと愛用のカメラを見た。やっぱり登美子と連絡とるのは止めた。

「とにかく今は写真を撮ることだ。傑作を物にしてやる」

  

 

 光也は曇天のもと光徳沼、山王林道、竜頭滝、湯滝をいったりきたりしながら撮影を繰り返した。

曇りのせいか日の暮れるのも早かった。光也が空腹と目一杯疲労してペンションに戻ってきたのは以外と早い時間だった。

「ただいまー」

「おかえりなさい」

 登美子が出てきた。

「あれっ、早かったんだね。鬼怒川の方まで行ったんじゃなかったの?」

「ええ、オーナーが裏道知ってるんで思っていたより早かったのよ」

「登美ちゃん、じゃさっそく帰ろうぜ」

「ちょっと休んだら」

「でも早くしないと家に着くのが遅くなっちゃうよ。親も心配するし中間試験も近いし」

 オーナーが奥から出てきた。

「光也君、そうあわててもどうせこの時間イロハの下りは渋滞で動かないよ。まあ、風呂入って飯食ってからでも時間はそう変わらないさ」

「そうですか・・・・・・じゃそうします」

 二人はオーナーの好意により夕飯をごちそうになってから出発することにした。

「光也、どうだった?」

 さっそく登美子が聞いてきた。

「う、うん。まあまあってとこかな」

「本当?」

「ああ、まだ現像してみないとなんとも」

「最初にわたしに見せてね」

「いいよ」

 光也は登美子に聞いた。

「買物とかいっぱい出来た?」

 登美子はにっこりして言った。

「ええ、こんなに」

 抱えきれないほどの紙袋を光也の目の前に出してきた。

「そ、そう。良かったね」

「今日いっしょに行った子たちは明日帰るんですって」

「ふーん。無理して今日帰らなくていいなんて楽だね」

 登美子が光也の顔をじっと見た。

「光也、今日は別々で残念だったわね」

「そ、そうだね」

「今度来るときはいっしょにゆっくりしたいでしょ」

 光也は嫌な予感がした。

「あ・・・・・・ああ」

「二週間後にまたいっしょに来ましょうね」

「でも、登美ちゃん試験とかほら、俺達もう受験だから・・・・」

「大丈夫よ」

 登美子はにっこりして言った。でも目が笑っていなかった。

「はい、いっしょに来ることにしよう」

 光也は思わず了解した。

「よかった。わたしオーナーに予約しとくわ」

 やれやれ、無理やり次の予定も決まってしまった。

 二人は日光を後にした。

  

 

「店長、このリバーサルフィルム、スリーブ仕上げにしてね」

「おっ、ずいぶん一杯撮りましたね」

 光也は行きつけのカメラ店に日光で撮影したフィルムを現像しに行った。

 光也の住んでいる街も駅前などは開発が進んですっかり町並みが変わってしまったが、この田中カメラ店の辺りは昔の面影を残していた。

店長は年配の人で他にバイトの店員が一人いるだけの小さな店だったが光也はたいていここで用を足していた。

「なるべく早くお願いしたいんだけど」

「うーん、二日位かかるよ、急ぐの?」

「実は・・・・・・」

 光也は例の写真勝負の話を簡単にした。

「ほー、そりゃ災難というかまあいい経験というか」

「俺困ってるんですよ」

「いいんじゃないですか、腕試しと思えば」

 光也は聞いてみた。

「店長、風景だと中判なんかのフォーマットの大きいカメラがやっぱり有利かなあ」

 店長は一呼吸置いて言った。

「いや一概にはいえませんな」

「だってフィルムサイズが大きければ大伸ばしにも耐えられるし描写も緻密だし」

「それだけならみんな4×5判とか8×10とか使ってますよ」

 そう言いながら後ろの防湿ケースから何か取り出してきた。ペンタックス6×7だった。

「このカメラは風景写真家に以前から人気のロングセラーなんですが、ちょっと持ってみて」

 言われるままに光也は手に取ってみた。金属ボディと大きいペンタプリズム。ずしりときた。

「重いね、これ」

「まあ最近の35ミリもニコンのF5とか重いのが増えたけど。どうです、交換レンズだってけっこう重いし、このペンタ6×7に交換レンズ何本か持って、もちろんズームなんかないし、それに三脚も五キロ位ある奴じゃないとブレるし。その他露出計とかアクセサリー用意して、さらに食料とか水も持って自由に奥日光歩き回るのは余程体力に自信がないときついですよ」

「うーん。確かに」

「車からあまり離れない場所で撮影する分にはいいですけど、歩いて移動となるともう重労働。まあペンタ6×7は中判としてはまだこれでも機動性があるほうだが、悪天候だったりすると撮影は大変ですよ」

「アシスタントか誰かいないとね」

「それでわたしも最近はペンタックス645っていうフォーマットの一回り小さいやつを愛用しているんです」

「ふーん」

「とにかく、風景写真を始めると中判をみんな持ちたがるけど使い勝手を考えると誰でもってわけにはいきません。それより35ミリ一眼レフの振り回しの良さを生かして表現を考えたほうがいいですよ。交換レンズの種類は多いしズームも揃っているし」

「じゃあコンタックスはどう?」

「ツァイスのレンズですか」

「やっぱりそんなに違う?」

「国産メーカーに比べるとジャジャ馬ですよ。おっと今はツァイスもほとんどメイド・イン・ジャパンですけど」

「ジャジャ馬って?」

「プラナーの85ミリの開放は確かにボケ味が素晴らしいです。でもピントの合う範囲、被写界深度が極端に浅くなってしまうため以外と風景ではその効果をだしにくいんです。それで絞り込むと今度は独特な味が弱まってしまう。ポートレートなら絶大な力を発揮しますけど風景で使いこなしているひとはあまりいませんね」

「へぇー」

 光也は感心した。

「広角系はどう?ディスタゴンとか」

「はい、わたしは好きです。特に25ミリ」

「描写が?」

「歪曲収差がほとんどないので古い町並みを撮るときに有利なんです。ほら、柱が曲がってたんじゃ困るでしょう」

「そりゃ単焦点だし、ズームに比べれば収差は少ないよ」

「でも、風景ならレンズ性能より広角ズームでフレーミングをしっかり決めてトリミングのいらない作品を作ることが一番大切だと思います。特に国立公園とかは立ち入り禁止区域がほとんどで広角の場合思ったようなワーキングディスタンスが取れませんから」

「ふーん」

「機材の差よりも、どれだけ被写体のいいところを見つけてフィルムに残せるかですね」

「俺の実力で勝負になるのかなあ」

「いい機会じゃないですか。有名な写真家もくるのなら作品を批評してもらえるし、そんなチャンスめったにないですよ」

「そうかなあ・・・・・・」 

「ラボに大至急って連絡しときますから。明日の夜にはあがるようにさせます」

「店長ありがとう」

 光也は店を出ようとして思い出した。

「店長」

「なんでしょう?」

 気になっていたことを質問した。

「フィルムのDXコードにテープ貼って手動で感度設定して使ってる人ってけっこういるのかな」

「うーん」

 店長は考え込んだ。

「そうですね、私が以前使ってたAFカメラはフィルム交換の度に手動で感度を再設定しなくちゃならんのですごく面倒でした。いま使ってるカメラは、一度設定すれば手動の感度のままなので再設定は必要ない。便利だが時々戻し忘れることがあります」

「ふーん」

「たぶんDXコードにテープ貼るってのは誤作動を避けるためでしょうから、メーカーの異なるカメラを常時何台か使っている人だと思われます」

「・・・・・・」

「もっとも、今時そんなことしてる人はほとんどいないと思いますけど」

「そうだよね」

「光也君のEOSも確かそうでしょう。増感とかする時はフィルム交換の度に設定し直すタイプでしたよね」

「うん、でも俺メーカー指定通りの感度でしか使わないから」

 光也は棚にある高級機を見るとはなしに見た。

「それと、あのー近視だけじゃなく老眼の人も視度調整レンズをファインダーに付けることは多いですか」

「ええ、最近の奴はみんなデジタルで絞りとかシヤッターとか表示するから読めないと困ることが多いしそのたびに老眼鏡かけるわけにいかないから使っているひとはいますよ」

「そうですか・・・・・・」

「もっともわたしのカメラは視度調整機構内蔵タイプだから重宝してます」

「ふーん」

 店長は光也が新機種を欲しいと思ったらしい。

「光也君。カメラの買い替えを考えているのかな?」

 光也は首を振った。

「いえいえ、俺の実力では今のでも充分過ぎます」

「下取りもするからその時はよろしく」

  

 

「みつやー!居るー?」

 玄関が騒がしい。登美子がやってきたらしい。

「光也、お友達来たわよー。登美子さん」

 うちのオフクロとは何故か昔から仲がいい。勝手に上がり込んできた。

「光也、こんにちは」

 制服姿のままの登美子が部屋に入ってきた。

「こら、男の部屋に入るのにちっとは遠慮ってものがないのか!」

「別にいいじゃないの。初めて来たわけじゃ無いんだし」

「・・・・・・まあそりゃそうだけど」

 登美子は雑然とした部屋を見回した。

「相変わらずって感じね」

「突然くるからだよ」

 正直いってすごく散らかっていた。

 登美子は部屋にあったカメラ雑誌をめざとく見つけた。

「あーっ、光也ったら。なにこれ!」

「んっ、アサヒカメラだけど」

 光也は内心しまった、と思った。

「だってこれ、ヌード特集≠チて書いてあるわよ」

 登美子は恥ずかしそうに言った。

「登美ちゃん、感違いしないでほしいな。これは芸術だよ、芸術」

 光也は思わず赤くなってしまった。登美子に気づかれないよう平静を装う。

「登美ちゃん、芸術ってのは誤解を受けやすいものなんだ。アサカメをそこいらのグラビア雑誌と一緒にして欲しくないね。ほら、見てよ」

 光也はわざとページをめくって見せた。もちろんモノクロの静物写真とやたら難しい記事の部分、そして中古カメラに関する相場情報。

「どう」

 光也はコホンとせきばらいした。

「へー以外と堅い内容なんだ」

 登美子は興味を失ったようだった。光也はそ知らぬ顔で、他のちょっといかがわしい本を登美子の目の届かない所に隠した。

「ところで光也、写真出来た?わたし撮ったの出来たから持ってきたのよ」

「俺もさっき出来て取ってきたばかりさ」

 光也は田中カメラ店から取ってきたばかりのフィルムを机の上に広げた。手にとって見ようとした登美子が不満げな声を出した。

「光也、これフィルムだけなの」

「あ?そうだよ、リバーサルフィルムっていうんだ。普通のネガフィルムとちがってこのままなんだ」

「これじゃわからないわ」

 光也はライトボックスを用意した。

「登美ちゃんこの上にフィルムを乗せてルーペで見るんだよ」

 光也は電源を入れた。ライトボックスが明るくなった。上にフィルムを置く。

「これならどう?」

 登美子はルーペ片手にあれこれ見ていたがやがて面倒くさくなったようだ。

「光也もっと簡単なのないの」

「スライド映写機にかければ映画みたいにみられるけど、それにはこれ一枚ずつマウントしなくちゃだめなんだ。あとビデオで手軽に見るやつも売ってるんだけど高くて・・・・・・」

「よくわかんない」

「この中から選んでいまプリントするからそれまで待っててよ」

 登美子は不満げな顔だった。

「一番最初に見せたんだからいいじゃないか」

「・・・・・・」

 おふくろがお茶を持ってやってきた。急に登美子の態度が一変した。

「おかあさん、これこの間の日光の写真です」

 登美子は使いきりカメラで撮った写真を出した。

「まあー、いい所ね」

「そうだろ、無理して行くだけの価値はあるところさ」

「写真、光也よりうまいわよ、きっと」

「おふくろ、誉めすぎだよ」

 光也も見た。確かにけっこう良く写っている。

 最近の使いきりカメラの実力の高さには目を見張る。絞りも無いしシャッター速度も一定の簡単な構造だ。

 フィルムのラチュードが広いからそれでも良く写るのだろう。そういえばレンズもプラスチック非球面レンズを使っているそうだ。記念写真には充分すぎる。

「登美ちゃんにしては良く撮れてるね」

「ポラロイドカメラとかちょっとクラッシックっぽいの持つのがオシャレなのよ」

「確かに古いマニュアルフォーカスのカメラとかぶら下げてる娘よく見かけるぜ」

「わたしもカメラ買おうかな。ライカ≠ニか」

「こらっ、百年早い!」

 写真を続けて見ていた光也の手が止まった。それは最初に小田代原に行った時の物だった。あの新日本写真家協会の木村が写っていた。手にしているカメラはミノルタのAF機だった。

「うーん」

 光也が写真を手に黙り込んだのを見て登美子は言った。

「どうしたの?」

「この写真ちょっと借りるよ」

「わたしの撮った写真、今度の勝負に使いたいとか言わないでしょうね」

 光也は写真を見ながらつぶやいた。

「人類滅亡の危機がきてもそんなことは言わないよ」

「今なんて言ったの!」

 みるみる登美子の表情が変化した。

「写真貸してやらない」

 光也はあわててごまかした。

「ごめん、ごめん、そんな意味じゃないよ。やだな、今後の撮影の参考にしようと思ってさ、ハハハハ」

 光也は自分に情けないな、と思いつつ登美子から写真を手にいれた。

  

 

 その夜、光也はあの秋山という老人に電話した。

あの北井光也ですが

おう、君かね

あの写真どうしましょうか

今、スリーブ状態かね

ええ、そうです

もう、テーマに沿って選んだかね?

いいえ、これからです

んー、あんたの選んだ奴をサービスサイズでいいからダイレクトプリントして送ってくれ。そうだな。作品提出数は十点以内じゃったから・・・・・・十点位送ってくれればいいよ

サービスサイズでわかりますか?

かまわんよ、わしはただ見るだけじゃ

何か組写真のアドバイスをしてくれるのでは?

いいや、おぬしが自分で決めたテーマに沿って自分で十点選ぶのじゃ

えーっ、俺だけで決めていいんですか

大丈夫じゃ、自分で自信を持って選べば良い

うーん・・・・・・じゃそうします

 光也は電話を切った。

「やっぱりあのじいさんあんまりあてになんねえな」

 光也は色合いとか微妙なピントとかはどうするのか気になった。自分で細かくチェックするより他に方法は無かった。日程も余裕が無い。光也はそれから時間をかけて写真を選びだした。

  

 

 光也が写真を秋山老人の所に送った日の夕方、遠峰刑事がやってきた。

「光也君、今晩は」

「あっ、遠峰さん」

「奥日光ではご苦労でしたね」

「遠峰さんこそ、大活躍だったね」

「いやあ」

 遠峰は照れた。光也はイロハ坂の恐ろしいドライブを思い出していた。この人の運転する車だけは乗るまいと思った。

「叔父さんはどうしてます」

「植野山警視は引き続き例の事件捜査しているよ。もっともここのところ『覚醒剤撲滅キャンペーン』の標語の審査委員として忙しいようだ」

 遠峰は例の一連の事件の捜査を続けていた。やはりまだ仲間が残っているらしい。

「サングラスのカンフー男は何かしゃべりましたか?」

「いや、一言も話さないのだよ。取り調べが全く進まない」

「他の連中は?」

 遠峰は運ばれてきたお茶をぐびりと飲んだ。

「バイクを操ってたのはただの学生オートバイサークルだったよ。そいつらは何も知らなかった」

「やっぱり」

「ただカンフー男のことで少しだけわかったことがある」

 遠峰が言った。

「何?」

「あいつ道場で拳法やってたそうだ」

「拳法?」

「あまり詳しいことは教えてやれんが、どうも大日本帝国拳法≠チていうちょっとばかり愛国精神の強すぎるやつらの集まっている道場でね」

「カンフー男が」

 光也は思った。カンフーじゃなくて拳法だったのか?しかしなぜ長髪なんだろう。

「そう、それであの男やけに強かった訳さ。その他はただ雇われ学生だし残念ながらそこまでしかわからない」

「首謀者がいるはずだね」

「無線を盗聴していたり、予告状を出したり、連絡をとったものがいるはずだ。まあ、かなり頭のきれる人物に違いない」

 光也は竜頭滝に犯人らが残したカメラについて聞いてみた。

「遠峰さん、あのカメラに何か手がかりはなかったのですか」

「遺留品に指紋その他犯人に結びつくようなものは今のところ見つかっていない」

「そうですか」

 遠峰刑事はいくつか日光でのことを聞いたのち帰っていった。

 

 

 光也は秋山老人からの連絡に従い、選んだ作品を光也は四切に伸ばすため田中カメラ店に行った。

「店長、これとこれと・・・・・・これ、ダイレクトプリント四切ワイド、ノートリミングでお願いします」

 店長が言った。

「ちょっとポジ見せてもらっていいかい」

「どうぞ」

 店長は古ぼけたライトボックスを取り出すとスイッチを入れルーペで見始めた。しばらく無言で見ていた。ときどき倍率の高いルーペに替えて見ている。

 光也は不安になり聞いた。

「どうですか」

 難しい顔をしてポジを見ていた店長は、顔をあげると光也に向かってにっこりした。

 

 

 後は出来上がりを待つばかり。そして今度の土曜日に日光に向かう。

 光也は自分の部屋でごろごろしながら考えていた。いきなり、はっと起き上がった。

「そうだ、まさか・・・・・・」

 光也はカメラバッグのポケットをあちこち探していたが何か見付けた。そして出掛ける準備を始めた。

「叔父さんの所にいって来るとするか」

 ジャケットをつかむと出ていった。

つづく

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