決闘!小田代原
第一回
サイトウ
「まったく、首相のカメラ好きにも困ったもんだな」
植野山警視はもう何度も見た書類を机の上に放り出し、やおら立ち上がった。
「遠峰君。車の準備は出来ているかね」
「はい、警視。いつでも出発できます」
長身の青年が答えた。
「じゃあ出かけるとするか」
遠峰は無駄の無い動作で先に部屋から出て行った。
植野山警視は上着をつかむと部屋から出ていこうとした。
パソコンと格闘している池田が怪訝そうに言った。
「山ちゃんどこいくのさ、朝っぱらから」
「日光」
「おーっ!そいつぁいーねー。天気もいいし」
「まあな」
「みやげ待ってます」
「じゃ、留守中はよろしく」
後ろ手にドアを閉めると警視は玄関に止めてある旧型クラウンの助手席に乗り込んだ。
遠峰は車を動かした。交差点を右折し国道に入る。車の流れる道路、隣立するビルの上には秋の空が広がっていた。
「遠峰君、日光にはどれくらいで着くかね」
「今日は週末ですし今からですと、東北自動車道は栃木あたりから渋滞してますね。いや佐野インターあたりからかも知れま
せん」
「えっ?」
「奥日光まで行くにはイロハ坂も渋滞してるでしょうからまあ軽く三、四時間はかかりますね」
「しまった。じゃあ一日がかりになってしまうじゃないか」
植野山警視は軽く考え過ぎていた。
「まあ僕に任せてください」
遠峰は余裕たっぷりだった。
「わかった。緊急サイレンを鳴らして行こうっていうんだな。そりゃ速い」
「警視、そんなこと普段できるわけないじゃないですか」
「やっぱり・・・・・・」
「これですよ、これ」
遠峰はなにやらダッシュボードにセットされたディスプレイ機器を取り出した。
「遠峰君、テレビゲームで渋滞を楽しく過ごそうってのかい?いいねえ。それともカラオケ?」
「警視、僕がそんな人間に見えます?」
呆れ顔で遠峰が言った。
「聡明が服着て歩いてるような君のことだ。海より深い事情があるのだろう」
「これはですね、わが捜査班が某無名電気メーカーと共同開発した近道発見機です」
「・・・・・・」
「これがあれば渋滞を避けて目的地に一番速く着くルートを探すことが出来ます」
「・・・・・・遠峰君」
「はっ?」
「それってただのナビゲーションじゃないのかね」
「警視、一般市販品と比較しちゃいけません」
遠峰は延々とその『ABE工房R62号』の説明を始めたので植野山警視はうんざりした。
「また始まった。こいつのくどい性格だけは直らんな。これさえなければ出世も早いだろうに・・・・・・」
適当に相槌をうちつつ寝たふりをすることにした。
「遠峰君、すまんがわしは寝ることにするよ。羽生か佐野のサービスエリアに着いたら起こしてくれ」
「はい、警視ごゆっくりお休みください。今度の三連休に予定されている首相達の日光見物の件でお疲れでしょうから」
植野山警視は座席をリクライニングしすぎて後ろにひっくり反った。
「遠峰君!」
「はっ?」
「どうして今度の連休に首相が日光にいくことを知っているのだ。トップシークレットのはずだぞ」
「警視、今朝の新聞見ました?」
「いや」
「A国大統領の来日を歓迎して、橋本田首相自ら紅葉の日光を案内するってデカデカと出てましたよ」
「なんだと!」
植野山警視は座席のリクライニングを直そうとして膝をダッシュボードにしたたかぶつけた。
「うっいてて・・・・・・」
遠峰は続けた。
「日本の美しい自然、そして東照宮などの歴史ある建築物を紹介し、わたしの撮った写真をプレゼントすることにより友好を深める。橋本田首相談」
植野山警視は驚いた。
「なんてことだ・・・・・・」
「全然トップシークレットじゃないでしょう」
「A国大統領が例の在日軍事基地問題のことで強引に日本に圧力をかけ、国民の顰蹙をかっていることは君も知っているな」
「もちろんです、縮小すると言いながら結局ただの分散ですから。そのダーティイメージを払拭するのが今回の来日の目的です」
「橋本田首相もここでできるだけ日本に有利な条件を引き出せれば汚名を挽回できる」
「国民には強く外圧には弱いってもっぱら噂になってますからね。それに国立公園内リゾート開発献金疑惑に関与していたなんて週刊誌に書き立てられてますから」
「日光にA国大統領を連れて来ることにより自然保護にも力を入れていることを強調したいのだろう」
「次期総裁戦をにらんで支持率の回復を狙うってとこですかね。赤字国債火だるま首相」
「こいつは困ったことになったぞ」
植野山警視は渋い顔つきになった。
「遠峰君」
「はっ?」
「君には全部話さなきゃいかんな」
「・・・・・・」
「A国大統領と首相の会談を妨害しようという動きがあるのだ」
「まさか・・・・」
「いや、本当だ。予告声明文が届いている」
「・・・・・・」
「すでになにがしかの妨害行動を起こすため準備しているだろう」 遠峰の顔に緊張が走った。
「・・・・・・ということは」
「狙ってくれと自分から宣伝したようなもんだ」
「もし襲われるようなことにでもなったら、外交問題に発展。ただじゃ済まない」
「・・・・・」
「こらっ、しっかり運転しろ。危ないじゃないか」
急に前に割り込みされ、遠峰は急ブレーキを踏んだ。運転にスムーズさがなくなっていた。
「ぼっ、僕はしっかりしています」
どうみても狼狽しているとしか見えない。
「しかし、どうしてわざわさ予告声明文までしてそんなに騒ぎを起こしたいのでしょうね?」
「奴らは、自由の意味をはき違えている。主義、主張が通らなければすぐ妨害する。A国大統領の今度の来日が良いきっかけ位にしか考えてないのだよ」
「うーん・・・・・・」
「テロ行為は年中無休、追求する理念のためなら日光でもどこでも」
「警視、でどういう対策を」
植野山警視はアゴを撫でつつ余裕の笑みを浮かべる。
「遠峰君、私を誰だと思っているのかね。警視庁要人課SPとしてVIPの護衛は数えきれん程こなしてきているのだよ」
遠峰は以外そうな顔をした。
「警視がSPを・・・・・・」
そういえば、遠峰は今の特捜部に移ってきてから日が浅いため植野山警視の昔のことは知らなかった。また活躍は一度も見ていなかった。もっとも普段の警視の様子をみている限りでは、期待する方がムダという感じしかなかったが。
「今回の対策はだな・・・・・・」
「対策は・・・・・」
遠峰は期待した。どんなテロリスト対策を講じたのか。
「まだだ」
「えっ?」
「何もいい対策が浮ばんので、とりあえず現場を見ておこうかなと」
「・・・・・・」
がっくり肩を落とした遠峰と、いびきをかき始めた植野山警視の乗った車は首都高の渋滞をノロノロ北に向かった。
渋滞した首都高から東北自動車道に入り遠峰達は日光を目指して走った。
佐野のサービスエリアに休憩のため遠峰は車を入れた。
「警視、休憩しましょう。トイレに行っておかないとこの先渋滞してますよ」
「・・・・・・うーん」
警視はしげしげと遠峰の顔を見て言った。
「ここは?」
「佐野のサービスエリアですが」
「しまった。寝すぎてしまった」
「えっ?だって日光まではまだまだですから、寝ていても大丈夫ですよ」
「そうじゃない、署に戻るんだ」
「なんですって!」
遠峰は車から降りようと、ドアを半開きにした姿勢のまま止まった。
「署に戻るんだ」
警視は繰り返した。目をパチパチさせている。
「どうしてです?」
「橋本田首相は趣味が写真撮影だ。それも風景写真が大得意。となると日光東照宮近辺のお決まりスケジュールじゃ満足するわけがない。」
「・・・・・・」
「イロハ坂を上がって紅葉真っ盛りの奥日光に絶対A国大統領を連れていくに決まってる。そこで自分の腕を自慢しつつ接待する」
「自慢するってゴルフじゃあるまいし・・・・・・」
「首相は今頃行動予定を無理遣り変更してるに決まってる。私達も帰って護衛の対応を再検討しないといけない」
遠峰があきれて聞く
「再検討もなにもまだ具体的な対策を考えてなかったのでは・・・・・・」
「とにかく戻ろう。情報の整理が大切だ。日光に行くのはその後にしよう」
「・・・・・・わかりました。『ABE工房R62号』を試せなくて残念ですが仕方ありません」
遠峰はシートベルトを締め車を動かそうとした。
「待て!」
植野山警視は鋭い声で、遠峰の動きを制した。
「どうしたんです?」
警視はおもむろに言った。
「うどん食ってからにしよう」
「まだ真っ暗だわ」
車から降りた高山登美子は寒さに身震いした。
奥日光の秋の深まりは澄んだ空気から全身に伝わってきた。
「しっかり着込んでってくれよ。寒いのはこれからだから」
北井光也は三脚をトランクから出しながら言った。
二人は高校生。三連休を利用して日光にやってきた。
これから小田代原の夜明けを写真撮影に行くところだった。
奥日光赤沼茶屋駐車場は、まだ夜明け前なのに車でいっぱいだった。ナンバーを見ると遠く関西や北陸のものもある。
「みんなずいぶん遠くから来るのね」
「ああ、すっかり有名になったからね。風景写真の『メッカ』って言われてるよ」
「『メッカ』ってなあに」
「うーん・・・・・・よくわかんないけど一度はおいでっていう感じかな」
「いい加減ね」
カメラやレンズを入れたデイパック型のカメラバッグを光也は背負った。二人は小田代原に行くバスの停留所に向かった。
「ねえ、車では行けないの?」
登美子が言った。
「ああ、以前は行けたんだけど交通量が多くなりすぎて一般車両は通行止めになったんだ。それで歩いていくか、あの電気バスに乗っていくかどちらかなんだ。電気っていっても百パーセントじゃなくてディーゼルエンジンとの併用になってるそうだ」
「バスでよかったわ」
「えっ?」
「光也の運転のせいでずっと体中に力が入ってて肩が凝ってしまったの」
登美子は首を回して見せた。
「そりゃ俺は免許とったばっかりだけど、イロハ坂は誰が運転したって寝ていられるような平坦な道じゃないよ」
確かに免許を取得して日の浅い光也にとって夜のイロハ坂は走るのがやっとの状態だった。おまけに車も親父から無理に借りてきたのであまり乗り慣れていない。まあ上り専用になっていて道幅もけっこうあるので、光也の車を他の車はどんどん追い越していったけど。
バスの待合場所には大勢の人がいた。
「わー、ずいぶんいるわよ」
「うん、祝日と土日だけしか早朝バスが運行されないんだ。平日は歩いていくしかないんだよ」
「そんなに小田代原の朝ってきれいなの」
「この前雑誌で見せたろ」
「本当にあんな風になるの」
その写真は朝靄の漂う晩秋の湿原に一面に降りた霜が朝日を反射して輝いていた。そしてその湿原の中に立つ一本の白樺。その美しさは比類がなかった。光也もそういう写真を撮ろうとやってきたのだ。
「まあ行けばわかるって。それより速く並ぼう、乗り損なうと日の出に間に合わない」
二人は『わたすげ』という名のバスにのり込んだ。
バスはまだ暗い道を小田代原に向けて走りだした。国道を右折する。途中にゲートがあり一般車は入れないようになっていた。バスがゲートの前で止まると自動で開いた。
「へえぇー自動なんだね」
「つまんないことに感心しないの」
まだ暗い林の中の道をバスは走る。ヘッドライトの明かりだけ、回りは闇。時々白樺の幹が闇に浮かびあがる。
ほどなくして、小田代原に着いた。料金を払い降りる。
いくらか明るくなってきた。湿原の広がりがなんとなく分かる。「登美ちゃん、こっちだよ」
何人ものあとに続いて遊歩道に入る。光也は本で撮影ポイントの目星をつけていた。正面からより左側の位置を確保したほうが、光の状態が良い。すでにその辺は道沿いに三脚が立てられ、撮影の準備に入っている人でいっぱいだった。
「うわ、もうこんなにいる」
「一番早いバスなんでしょう、わたしたちが乗ったのって」
「みんな歩いてきたんだろう。それともテントに泊まっていたのかも知れないね」
事前に決めていたポイントの辺りは、もういっぱいでとても入り込む余地はなかった。といって後ろで順番待ちしているわけにもいかない。光線状態のいい時間は限られている。
「登美ちゃん、もう少し移動しよう。これじゃ無理だよ」
「そうね」
「どうしてみんな同じ所から撮ろうとするんだろう。個性が足りないよな」
「光也はどうなの?自分だってみんなと同じなんじゃないの」
登美子がニコッと笑う。
「俺はいいんだよ。初めてなんだから」
湿原に沿ってさらに移動する。白髪の老人の横が少し空いていた。光也は声をかけた。
「あのー・・・・・・すみません」
「んー・・・・・・」
「ここよろしいでしょうか」
「あーかまわんよ」
老人は少し寄ってくれた。ジッツオの三脚にハッセルブラッドをセットしている。ずいぶん使いこんであるようだ。
光也はなんとか場所を確保するとカメラの準備を始めた。もうマグライト無しでも見える位に明るい。しかし冷込みは強く湿原の草には霜が一面に白く付いていた。吐く息が白い。
愛用のキャノンEOS100に70〜210ミリズームレンズを付ける。そして三脚に取り付けた。気温が低いのでバッテリーには注意しなくてはいけない。すぐに消耗してしまう。予備があるかチェックした。
フィルムはリバーサルフィルムのフジクロームベルビアを装填してある。一般的に使うフィルムはネガカラーだが、風景写真の人はリバーサルフィルムの愛好者が多い。撮影時のシビアな露出設定により自分の思うようなイメージに仕上がるためだ。
光也もスナップ撮影は高感度のネガカラーを愛用していたが、風景を本格的に撮り出してからはリバーサルフィルムを常用している。
セッティングがある程度完了し、光也は回りを見回した。年配の人が多く、光也と登美子くらいの年令の人は見える範囲にはいなかった。
回りの人の持っている機材を見た。35ミリ一眼レフは、EOS1Nに通称Lレンズと呼ばれている高性能タイプのレンズを付けた人、ニコンF5に前玉の大きい大口径レンズの人、フィルムサイズの違う大判や中判の人も多かった。
みんなやたら高そうカメラとレンズを高そうな三脚に付けている。布をかけたり自作のケースで覆ったりいろいろな防寒の工夫をして手慣れた感じで撮影の時を待っていた。何度もここに通ってきているような感じの人が多かった。 光也は自分の装備がそれらと比べてあまりにたよりないので、何となく不安になった。
「やっぱりズームレンズは高性能のF2.8クラスの奴が欲しいよな。この三脚はでかくて重いし、撮影の時はいいけど持運びが大変だ。カーボン製のも欲しいな」
さっき場所を空けてくれた老人が話しかけてきた。
「ここに来るのは初めてかい?」
「ええ、本で見て一度来てみたいと思っていたんです」
「ほう、そうかね」
「この三連休を利用して親戚のペンションに泊り込んで秋の日光をたっぷり撮ろうっていう計画なんです」
「そりゃ楽しそうじゃ」
「天気もよさそうだし、良い写真が撮れるといいんですが」
老人が光也の回りをうろうろしている登美子に興味を持ったらしい。
「いっしょにいるのは彼女かい?」
「いやー、そのー・・・・・」
すかさず登美子が割って入った。
「違うんです。わたし、近所に住んでるクラスメートです。今回たまたま光也が一人で日光にくるのに、自信がないっていうんで仕方なくついてきてるんです」
光也が言い返す。
「違う、違う。登美ちゃんがペンションにただ同然で泊まれるから無理やりついてきたんじゃないか」
「まあっ、失礼ね」
いきなり光也の背中をつねった。
「イテテ、ごめん、ごめん。許して」
「はっはっは。元気があっていいのう」
「あー痛・・・・・・。おじさんはここの常連ですか?」
「いいや。常連なんかじゃない、今年は初めてだよ・・・・・・以前はよくきたけどな」
「小田代原はすごい人ですね」
「ああ、有名になりすぎた・・・・・・もうわしの抱いているものとは違ってきたんじゃ・・・・・・」 それきり黙りこんだ。自分の世界に入ってしまったようだ。
東の空が明るくなってきた。湿原のなかに立つ一本の白樺の木の辺りにうっすらと霧が漂いだしていた。シャッターの音が時折聞こえる。長時間露光をしているのだろうか。それともテストだろうか。いよいよ撮影の時が近付いてきた。
静かだった。大勢の人が夜明けのほんのわずかの時間、光と影のドラマを捉えるためにこの場に集まっていた。着込んできたつもりだったが寒かった。足元から寒さが這い上がってくる。
光也はそわそわしてきた。何度もズームレンズを動かし構図を変えたりたりバッグの中を落ちつきなくのぞいたりしている。
近くから連続したシャッター音が聞こえてきた。それが合図とでもなったようにあちこちからフィルムの巻き上げ音やシャッター音が聞こえてくる。まだ太陽は顔を現さない。光也もそれに遅れまいとファインダーを覗き、リモコンレリーズでシャッターを切るタイミングをはかる。
「光也、光也ってば」
そばで見ていた登美子が肩をつつく。
「なんだよ、俺今いいところなんだからじゃまするなよ」
ファインダーをのぞいたまま光也はうるさそうに言った。
「レンズにカメラのつりひもが引っかかってるわよ」
「えっ?」
光也はあわててレンズフードにかかったストラップを直した。さっき縦位置から横位置にカメラを動かしたときに引っかけたらしい。知らないで撮ってたらケラレがでるところだった。
「光也ったら落ち着きなさいよ。出来上がってみたら黒いヒモがダラーっとすみっこに映ってたなんて、みっともないわよ」
「なにいってんだよ、シャレだよシャレ」
内心は冷汗ものだ。
「隣のおじいさん見てみなさいよ、すごい余裕よ」
隣をちらっと見た。おじいさんはまだハッセルのレンズにキャップをつけたままだった。上着のポケットに手を突っ込んだままぼんやりと前の湿原を眺めていた。
それを見て光也は落ち着きを取り戻した。
「まあ、あわてることもないさ」
明るさが一段と増した。後ろの林の梢のあたりに陽が差し始めた。まだ湿原に陽は当たらない。光也もシャッターを切り始めた。あわてず構図と露出を決める。早朝の日陰は青みを帯びた色になる。露出をアンダー気味にし幻想的な雰囲気になるように撮る。
湿原の西側から除々に陽が当たり始めた。草についた霜が溶けていく。光を浴びて七色輝いている。小田代原の情景が刻々と変わっていく。
陽の当たる部分と日陰の部分が画面の中に存在するとき両方は露出の差がありすぎ再現出来ない。構図を決めどちらを優先するか考える。
何枚か夢中で撮った。撮り続けて入るうち光也はどうもしっくりしない自分に気がついた。
「うーん・・・・・・」
光と影の素晴らしいドラマ、絶好の条件。しかしどう構図を変えてもどこかで見たような感じにしかならない。
当たり前といえば当たり前だ。著名な写真家が作品を発表して有名になった場所だ。ここで撮った写真はすでに多くの人が発表している。ここに来る前は本にでているような感じに撮ろうと思っていたが気が変わった。ただの真似になってしまう。
「光也、早くあの白樺撮ってよ、もうすぐ陽が当たるわ」
登美子は初めて見る朝の小田代原の美しさに声を弾ませていた。息が白く陽光にきらめく。記念撮影用の使いきりカメラでしきりに写していた。
く。そんな登美子にはおかまいなしとばかりに光也はカメラを下に向けると草についた霜を撮り始めた。
「光也、何撮ってんのよ」
「・・・・・・霜・・・・・・」
「湿原の白樺はどうしたの」
「もう撮ったからいいんだよ」
登美子はあきれ顔になった。
「本当にもうっ、何考えてんだか」
登美子のことはほっぽらかして光也は湿原の溶けかかる霜に的を絞って撮り始めた。絞り優先オート。露出は逆光なのでオーバー気味に補正した。撮っている間にみるみる溶けていく。そして水滴に変わっていった。
レンズをタムロンマクロ90ミリに取り替えアップも撮った。風が無いのでスローシャッターでも撮りやすい。被写界深度に注意して絞りを決めた。バックのボケ具合も重要だ。
光也はフィルムを交換しようとしてふと隣の老人を見た。相変わらずハッセルのレンズ、たぶんゾナー180ミリだと思うが、それにはキャップがしたままだった。一向に撮影に入る様子は無かった。
「変なじいさんだな、何してるんだろう?」
気になるが、構ってるヒマは無い。また撮り続けた。レンズを広角ズームに取り替えようとした。後ろから声がした。
「おい、じいさん写真撮らないのなら場所替われよ」
ガラの悪そうな声に光也が振り返ると声から想像した通りの三人の男が立っていた。パーマ頭にダウン。ジャケットの上にフォトベストを着込んだ男。それに三脚みたいに痩せている奴。いずれも三十歳後半といった感じ。
老人は聞こえないふりをしているのか、それとも本当に聞こえないのか湿原の方を見たままだった。
「俺達、ずっと待ってるんだぞ、ジャマなんだよ」
フォトベストの男が言った。
老人はゆっくり振り返るとしげしげと男たちを見た。
「はいよ、いまどくよ」
老人はカメラをしまい始めた。
「やい、そこのにいちゃん。おまえも下向いて葉っぱ撮ってるだけなら別な所行って撮れよ」
光也に向かってパーマ頭の男が言った。危なそうな雰囲気の男達だ、光也はさっさと場所を移動することにした。登美子が何かいいたそうな顔をするが目くばせしてやめさせた。どうせ、ここで粘ってもしょうがない、別な場所に行こう。
デイパックを肩にかけ歩きだそうとした。男たちはその二人分のスペースに強引に三人で割り込むと他人の迷惑を考えず撮影の準備を始めた。くわえタバコで態度がでかい。
三脚を担いだまま男たちの撮影する様を見ていた老人が言った。「まあ、せいぜいヘタクソな写真でも撮るんだな。あーあ小田代もこんな奴らの相手じゃ可哀相だ」
撮影していた三人の動きが止まった。
なんて大胆なじいさんだ。光也はこりゃただじゃすまないと思った。案の定男達の形相はみるみる険しくなった。
「なんだと」
「もう一ぺん言ってみろ」
男達の声が大きくなった。
「何度でも言ってやるわい。貴様等に小田代を撮る資格はない。口の聞き方を知らんたわけ者め」
ぬけぬけと言う。
「じじい!」
「ふざけた野郎だ」
つかみかからんばかりの勢いで老人に迫ってきた。回りの人たちが何事かと注目する。
困ったなどうしよう。光也は迷った。
「あなた達!」
いきなり登美子が前に出た。
「マナーの悪いのはそっちよ、ずっと待ってたなんて来たばかりだったじゃないの」
「それがどうした」
「無理やり割り込んで他の人の迷惑になってるのが解らないの!」「そうだ、そうだ」
じいさんがはやしたてる。
「なにを!」
「女はすっこんでろ!」
あーあ写真どころではなくなってきたぞ。光也は後ろのほうで小さくなっていた。喧嘩にでもなったらどうしよう。俺体力に自信無いしな。
パーマ男が今にも老人に手を出そうとした。光也は思いきって前に出ようとした。とたんに何かに足を引っかけて転びそうになった。そのひょうしに手にしていたカメラが飛んだ。
「あっ!」
カメラが落ちていく。誰かの手が地面に落下する前に光也のカメラを受けとめた。革のジャケットを着た五十代位のがっしりした体格の男だった。彼は光也にカメラを渡すと三人組と老人の間に割って入った。
「・・・・待ち給え」
男は新日本写真家協会日光支部の者で木村と言った。光也はほっとした。木村の他にもうひとりいた。中谷という四十歳位の男だった。
「みなさん穏やかではありませんな。これではみんなの迷惑になる。私が話を聞きましょう」
「このじいさんが写真も撮らずにボーッとしてるから、替わってくれといったんだよ」
「そうしたら、俺達に向かってヘタクソ呼ばわりしたのさ」
「写真も見ないうちからヘタクソ呼ばわりするとはな、とんでもねえジジイだ」
男達が次々にあること無いこと混ぜて話す。じいさんも負けていない。
「おまえらのような奴の撮る写真は見なくてもわかる。ヘタだ」
「そこまでいうならじいさんの写真はよっぽど上手いんだな」
「見せてみろよ!」
また騒ぎが大きくなりそうになった。すかさず木村という男が言った。
「まあまあ、みなさんお互いに写真好きなら写真で張り合ったらどうです」
「・・・・・・」
「こういうのはどうです。二週間後光徳沼のホテル光徳にある美術館で゛奥日光の彩景展゛という写真展が開かれます。主催は私の所属する新日本写真家協会です。それに作品を持ち寄りどちらがうまいか審査するというのはいかがかな」
「それで」
「勝った方にはこの美術館で個展を開けるように致します。もちろん費用はすべてこちらで負担致します」
「個展?」
男達は色めきたった。写真を撮影する者にとって作品を一度に公開できるチャンスはそう無い。個展を無料で開けるというのはかなりの魅力だった。
「審査は公正を期すように写真家協会の委員の人に選んでもらいます。貴方達も知っている有名な先生方が来ることになっているのでお願いしましょう・・・・・・」
三人は集まってなにやら相談していたがややあってダウン姿の男が言った。
「俺達は別にいいよ」
「御老人。あなたはどうですか」
「そうじゃな・・・・・・構わんよ。ただし勝負をするのはわしではなくこの若いのだが」
急に光也は自分が出てきたのでびっくりした。じいさんなんてことを言うんだ。
「えっ?こいつ」
「そうじゃ。貴様等のくだらん写真の相手はわしではもったいなさ過ぎる。それにこの若者の撮る写真の方が余程優れている」
「俺達は奥日光の常連だぞ、そんな初心者の若造になにが出来るっていうんだ」
痩せた男が今度は言った。
「そんなこといって自信が無いんじゃろう」
じいさんは挑発する。木村がとりなす。
「まあまあ、それじゃこの連休三日間で写したものに限るという条件を付けましょう。これならどうです」
「そうだな、どうせもう勝ったも同然だからいいよ」
「俺達はフォトコンの入選経験があるんだぜ」
男達はもう個展を開いたつもりでいる。
木村は言った。
「作品はひとり十点、サイズは四切り、この三日間奥日光で撮影したもの、現像から伸ばしの日数を入れても審査までには十分な時間があるから大丈夫ですよね。それと当日は作品を持って会場に十一時に来てください。名刺を渡しておきましょう・・・・・・」
光也は木村の話す声がやけに遠くから聞こえてくるような気がした。
俺があの三人と写真で勝負だって。あいつらの実力が全然わからないのに、おまけに俺は日光に来たことだって数えるくらいしかないのに。とんでもないことになったぞ。
小田代原のバス待合室の木のベンチに老人と木村は並んで座っていた。
「光也君と登美子さんはバスじゃないんですか?」
「ああ、赤沼茶屋まで撮影しながら徒歩でいくそうじゃ」
「後老人、光也くんの撮影に同行しないのですか」
「ああ、困ったことがあったら連絡しなさいとだけ言ってある。わしの電話番号は教えたよ」
「そうですか・・・・・・もう困ってたりして」
「大丈夫じゃよ。そんなに心配せんでも」
あれほど人があふれていた小田代原なのに、みんな次の撮影地に向かったのか閑散としていた。どこからか鳥の鳴声が聞こえてくる。
木村は老人に言った。
「失礼ですが御老人、あなたは秋山昭次郎先生じゃないですか?」 老人はゆっくりと木村の顔を見た。
「ほう、わしのことを知っている人がいるとは以外だわい」
「・・・・・・やはりそうでしたか」
「木村さんとやら。さっきはありがとう、と言いたいところじゃが・・・・・・」
「はっ?」
「わしの正体を知っていてわざと写真で勝負するように仕向けたじゃろ」
「まさか、そんなだいそれたことを」
「君も人が悪いね」
「それよりも先生、光也君を巻きこんで大丈夫なんですか。彼まだ初心者なんでしょう」
「さて、どんなものやら」
「わかった。先生がつきっきりで指導するつもりですね。ついに新人の育成に興味をもたれたのですね」
「そんなめんどくさいことするかいな」
「えっ?」
「写真は技術じゃ無い、感性じゃ。さてどうなるか楽しみじゃ」
「先生の作品も是非拝見したいのですが」
「んーっ、気が向いたらな。ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ」
「・・・・・・」
老人はジッツォの塗装の剥げた足の部分を撫ぜ目を細めた。
赤沼茶屋に向かうバスがゆるゆると坂を降りてきた。
光也と登美子は熊笹の茂るなだらかな道を歩いていた。
「確か赤沼茶屋はこっちの道だったな」
光也は別れ道の標識を見て言った。登美子はそれに答えない。
「光也、あんたったら全くだらしがないんだから」
「そんなこといったってさ」
登美子の機嫌はすこぶる悪い。
「あの状況でさ、俺にどうしろって言うんだよ」
「あの秋山っていうおじいさんもおじいさんだわ。光也があんなプロみたいな人たちと写真で勝負するなんて。どう考えても無理だわ」
「はっきり言うねえ」
「そうよ、当たり前じゃないの!あの時光也が断るっていえば良かったのよ」
「・・・・・だって」
登美子は早口で言った。
「光也のせいでせっかくの観光がひとつも出来ないじゃないの。わたし鬼怒川の竜王峡とか日光江戸村、ウエスタン村、東武ワールドスクエアに日光猿軍団。いろんなとこ行きたかったのよ」
「・・・・・・」
「このぶんでは、ずっと奥日光で撮影ばかりね」
「俺、最初からそのつもりだったんだけど・・・・・・」
光也は言いかけて登美子の機嫌がこれ以上悪くなっても困るので止めた。しかしあのじいさん、なんで急に俺に勝負しろなんていったんだろ。カメラと機材を見た感じでは相当使い込んでる様子だったが、それだけじゃわからないなあ。
あとあいつら三人の実力だってわからない。パーマ頭でダウン姿の奴の名前が吉田。カメラはペンタックス6×7。フォトベストは田口、カメラはマミヤRB67。どちらもブローニーフィルムを使う中判カメラだ。痩せ男の名が伊藤、ツァイスレンズを使うコンタックスRTSVを持っていた。
まあ自慢してるだけあって機材は良いしレンズだっていっぱい持ってるのだろう。きっと撮影ポイントもいろいろ情報を持っているに違いない。どんな写真が得意なのだろう。本当に俺が勝負したのでいいのかなあ。それともじいさん、あえて俺にまかせたのは一瞬のうちに俺の才能を見抜いたから、なんてね。
「光也、なにぶつぶついってるのよ」
「えっ、いっいや別に」
「早く行くわよ」
登美子はどんどん先に行こうとした。光也は小田代原での一件でカメラを落としそうになった。そのとき汚れたレンズの保護フィルターを取り外した。バッグのポケットにしまいながら言った。
「ねえ、そんなに急がずに戦場ヶ原の方にも行ってみようぜ」
「だめ!」
とりつくしまもない。
「せっかくの朝の風景がきれいだしさ」
「いったん駐車場に戻ってからよ」
どんどん先に進む。
「どうしてそんなに急ぐんだい?」
登美子は光也をキッとにらむと言った。
「光也のバカッ!トイレに行きたいからに決まってるじゃないの」
「・・・・・・なるほど」
「普通気がつくわよ、もう!デリカシーのかけらも無いんだから」
光也は前途多難の予感がした。早くもどっと疲れが出てくるのを隠せなかった。
つづく