桜が咲いたら

  
サイトウ      
   

 風は冷たかった。

 四月の風が体をかすめていく。

 バイクに乗ると実感する季節の匂い。

 久しぶりだった。

 バイクに乗ると何か変わるような感覚。

 歳をとった今でもその思いは変わらなかった。

 わたしは混雑した国道を避けた。右折して空いた道へと曲がった。

 二百五十CC単気筒のエンジン。四サイクルの鼓動を発して私のアクセル操作に反応した。

 ときたま後方から現れる速い車は左によってやり過ごした。

 休日。

 バイクに乗っていても毎日のこまごまとしたことが頭に浮かんできた。私はそれらのことを努めて忘れるようにした。

 山里はのんびりしていた。

 春の陽射しを浴びて道路沿いの花壇や家の庭には彩りある花々が咲いていた。土手の草も息吹きを感じさせた。遠く見える山は薄青く霞んでいた。

 道は緩やかな傾斜からワインディングへと変わっていった。杉の林を抜け、道は続いていた。

 広葉樹林が広がる山々が前方に現れた。

 山桜が茶色い斜面に咲いているのがはるか遠景に見えた。このへんが新緑に覆われるにはまだ何週間かありそうだ。

 わたしは山間いの細い道を走った。

 走ることに専念すれば雑念が消えるのではないかと思った。これといったあてもなく私は走り続けた。

 道ばたでバイクを止めた。

 ヘルメットを脱いだ。鳥の鳴声、水のせせらぎが聞こえる。

 陽射しは暖かだった。自販機で缶コーヒーを買った。

 ガードレールにもたれかかり道路下を流れる川を見た。水は澄んでいた。川底までよく見える冷たい透明度。何匹かの小さい魚が泳いでいた。

 ぬるいコーヒーを口に含んだ。缶の匂いがわずかにした。

 

 仕事の事が浮かんできた。もう何年も続けているのにずっと答えが出せなかった。このまま歳をとっていってしまうのが嫌でしょうが無かった。サラリーマンのレールにかろうじて乗っかっている自分。いつリストラの対象になるかそればかり気になっていた。

 会社で無能呼ばわりされるのは無視できた。言っている奴らも似たようなものだった。

 耐えられないのは自分への問いに答えを出せずに十数年たってしまったことだった。

 このままでいいのかとずっと何かが私をせきたてた。焦燥感がじりじりと大きくなってきていた。

 なんだかわからないことに腹をたてているうちに歳ばかりとって頭が薄くなっていた。このぶんだと腰が曲がってくるのも時間の問題だった。

「いかん、またつまらん事を考えてしまった」

 空缶をゴミ箱に入れた。

 私はヘルメットをかぶりバイクにまたがった。

 ひっそりとした道を走った。道はさらに細くなり林道になった。舗装はされていた。。

 四サイクル単気筒の鼓動がハンドルに伝わってきた。二百五十CCの排気量でも、低回転から中回転にかけて味があった。

 古いバイクだった。メッキ部分には錆が浮き出していた。

 もうめったに乗ることもなくなんども売り払おうかと思ったが、そのたびに思いとどまった。妙な愛着があった。それに売り払ったら二度と二輪に乗ることは無いような気がした。

 三速、二速とシフトチェンジして坂を駈け上がっていく。コーナーは所々砂が浮いていた。冬場のスリップ止めに使われたものだ。走るラインを変えて避けた。

 峠に出た。

 路肩にバイクを止めた。

 風の音が静かに流れていく。

 まだ標高の高い所は冬景色のままだった。続く山々は寒々とした灰色の光景が続いていた。

 私は走りだした。

 ブラインドの多いコーナーを抜けた。山の北側は濡れた路面が続いていた。小さい橋を渡った。この道を右に曲がれば帰り道だった。

 私はもう少し走っていたかった。まだ陽も高かった。やめて左の道を走りだした。地図は持っていなかったが確か自分の住んでいる町の北側にでるはずだった。

 私はまた細いつづら折りの道を上り始めた。対抗車は全く無かった。今この道を走っているのは自分一人のようだった。林道は思ったより長かった。わだちと路上の落石を避けて走った。

 路肩に工事中の表示が出ていた。車両通行止になっている。構わず走った。一キロと行かないうちに完全に通行止めになっていた。土砂崩れだった。

 バイクくらいなんとか通れるだろうと思ったが駄目だった。私はバイクを降りて近づいてみた。道路が何メートルにもわたって無くなっていた。

「これは駄目だな」

 仕方なく引き返した。今からあの分岐点まで戻るのはけっこう面倒だった。どこか回り道はなかったのだろうか。表示を探しながら走った。木の陰に隠れて錆びた看板があった。やっと読める文字で見知った土地名が記されていた。距離の部分は塗装が剥がれていて読めなかった。

 私はその方向に行くことにした。急な下り坂になっていた。

 五百メートルも行かないうちに砂利道になった。ちょっと強くブレーキをかけただけで簡単にタイヤが滑った。オンロードタイプのバイクなので荒れた道は苦手だ。スタンディングの姿勢で体重を後ろにかけそろそろと坂を降りた。

 これなら元来た道に戻ったほうがよかったかも知れない。そう考えたが、今更それは無理だった。これだけ急な悪路を上るのはもっと困難だった。

 私はこの道が行き止まりか、徒歩でなければいけないような道にならないことだけ考えて走った。

 うっそうとした杉や桧の森の中を道は終わりがないように続いていた。私は荒れた路面のギャップでフロントタイヤが振られる度に体勢を立てなおした。二百五十CCで良かった。もし大排気量のマシンだったら私の技量では走れなかっただろう。

 コーナーを曲がった。道幅がやや広くなった。そこから舗装されていた。かなり古く痛んでいたが今まで走ってきた所に比べれば雲泥の差といえた。

「ふーっ、やれやれ」

 私は少し休むと走りだした。まったく来たことのない場所だった。せめてなにがしかの表示をみてからゆっくり休憩しようと思った。

 小さなカーブを何度も曲がった。どこまでも両側に山の斜面が迫っている。

 すれちがう車は全く無かった。黙々と走った。

 ようやく人家がちらほら小さな畑の中に見えてくるようになった。山の間の斜面にへばりつくように建っていた。山が険しくて冬場はほとんと陽があたらないような所だった。

 道路ぞいにも家があった。人影は無かった。誰かいたら道を聞いたほうが早いかも知れなかった。

 道がやや広くなってきた。私は安心した。あまり急ぐと危ない。スピードを落とした。

 腰と肩が凝ってきた。私は休みたくなった。あの砂利道で少し止まっただけでほとんど休んでいなかった。

 どこかゆっくりできる景色のいい場所はないだろうか。

 私は辺りを見回した。カーブを曲がった。左の山沿いの所に桜の花が見えた。

「あそこに行ってみよう」

 私はそこに通じていそうな道にバイクを向けた。畑の畔道みたいだった。もっと先に乗用車の通れる道があった。

 桜の木を目印に進んだ。坂を上った。

 学校があった。

 桜はその校庭にあった。

 木造のかなり古い小さな学校だった。

 校庭に乗り入れるのは気が引けた。バイクを正門のそばに止めた。ヘルメットを脱いだ。

 私は歩いて人気のない校庭に入った。

 小学校のようだった。鉄棒やブランコがあった。

 私は桜の木の近くに寄っていった。校庭の砂を踏む感触が心地よかった。

 私は見上げた。

 花が枝という枝にあふれていた。

 満開。

 風は無かった。

 桜はその花びらを静かに散らせていた。

 花びらは地面の上に落ちて何かの紋様を描いているかのようだった。

 桜はかなりの大きさだった。幹は太く、枝も太く曲がって伸びている。樹齢も相当なものだろう。

 ソメイヨシノではないようだった。山桜のようでもあったが違った。私にはわからなかった。

 花は見事だった。淡い色合の花びらがいくつも目の前を舞い降りていった。

 桜は夕日を浴びてそこに立っていた。

 私は近くの、古タイヤをうめて作った遊具に腰を降ろした。

 逆光気味の光の中を、小雪を思わせる花びらが静かに落ちていくのをじっと眺めた。

 静かだった。

 のどかな春の陽射しのせいで私は眠くなってきた。

 

「こんにちは」

 ふいに声がした。

 はっとして私は周りを見回した。

 眩しくてよく見えないが桜の陰に誰かいるようだった。

 私はその影に向かって言った。

「誰だい?」

 木陰から誰か顔をだした。続いて細い手足が出てきた。      

 少女だった。

 私の前までやってきた。

 白いブラウスに赤いスカートをはいていた。小学三年生くらいだろうか。黒い瞳でじっと私を見つめた。私は何といっていいのかちょっとためらった。そして話しかけた。

「きみはこの学校に通っているのかい?」

 少女うなずいた。肩まである髪が揺れた。

 少女は言った。

「こんなところで何してるの」

「うん、おじさんは一休みしているのさ」

「一休み?」

 少女は小首をかしげた。

「そう、バイクにね、ずっと乗っていたので疲れたのさ」

「ふーん」

「それとね」

「なんだかわからない事が多くてね。疲れてしまったんだ」

「?」

 つい、私は余計なことまで言ってしまった。

「ううん、なんでもないよ」

 子供にこんなことを話してもしょうが無かった。

 少女は私の目をじっと見た。少女の瞳はとても深かった。私は見つめられることに困って目をそらした。

「じゃ、これあげる」

 少女は言った。スカートのポケットから何か取り出すと私の前に差し出した。

「はい、手を出して」

 いわれるまま私は手を差し出した。

「・・・・・・」

 手の平に少女の手の感触が伝わってきた。そして何か堅いもの。 私はそれをよく見た。赤褐色の小さな木の実が数粒。

「なんだい、これ?」

「これ桜の種よ」

「桜の?」

「花が咲くといいことがあるのよ」

 少女はまた私をじっと見た。

「花がいっぱい咲くといいことがいっぱいおきるのよ」

「これが?」

 その実を指で触ってみた。ころころしている。私はなんともいいようが無かった。

「じゃあね」

 手を振ると少女は桜の花びらの散る光の中へ行ってしまった。

 私はさよならと言おうとしたがもう見えなくなっていた。少女の去った方をぼんやりながめた。

「やれやれ」

 私はため息がでた。まるで今の自分が冴えない中年オヤジそのものだってことに気づいた。

 桜の実は手の中に残っていた。私は無造作にジャケットのポケットにしまった。

 私は傾いた陽射しの中で大きく伸びをすると校庭を歩いた。そしてバイクにまたがった。

 夕日が背中を照らした。

 自分の前に長い影が出来ていた。

 私は付き添う影を追い越したくなった。スピードを上げた。変わらずついてきた。カーブを曲がった。唐突に影はいなくなった。日陰に入ったからだった。しばらくしてまた日の当たる場所に出た。影は地平線に届きそうに長く伸びていた。そして除々に薄くなり消えてしまった。

 黄昏がやってきた。

 寒さが増してきた。指先が冷たかった。

 たいして迷わずに私はよく見知った町にでた。ずいぶん遠くまで来ていた。

 バイクのライトが私の行く道を照らした。西の空にはまだ明るさが残っていた。それもやがて消えて行った。家に辿り着いた頃にはすっかり暗くなっていた。。

 手がかじかんでヘルメットが中々脱げなかった。

 ポケットに手を入れた。何か手に触れた。小学校の校庭で少女にもらった桜の実だった。どうしようかと考えた。私は庭木の植わっている辺りに無造作にぱらっとまいた。そして家のドアを開けた。

  

「ただいま」

 台所から妻の声がした。

「お帰りなさい」

「うー寒い」

 私は鼻水が出ていた。

「いまお風呂沸かすからちょっと我慢しててね」

「ああ」

 途中から電話をかけて沸かしておいてもらえばよかった。ティッシュで鼻をかんだ。

 風呂で冷え込んだ体をほぐした。風呂からでて、すきっ腹にアルコールを流し込んだ。体は暖まったが、あっという間に酔ってしまった。

 女房が何か色々話しかけてきたが面倒くさくなって寝てしまった。それっきり少女にもらった桜の実のことは忘れてしまった。

  

 何日か過ぎた。

 妻と向かい合った夕食の席で私は重い口を開いた。

「会社で希望退職を募っているんだ」

 妻はさして驚いたふうでもなかった。

「業績悪いっていってたけどそんなにひどいの」

「ああ、でリストラの対象になる前に辞めようと思うんだ」

「えっ?」

 今度は驚いたようだ。

「へたにしがみつくより、すっぱり辞めようと思うんだ」

「だって・・・・・」

 妻は失業率とか老後の貯蓄とかこまごましたことを話始めた。

「花屋を始める」

 俺は言った。

「!」

「おまえのやりたがっていた花屋だ」

「・・・・・・」

「今しかないぞ。ずっとやりたがってたじゃないか。一緒になってから我慢してたんじゃないのか」

「ええ、そうよ。でも」

「俺も一生に一度位勝負にでたいのさ。じゃなきゃこのまま終わってしまう」

「・・・・・・」

「幸か不幸か俺たちには子供もいないし、家のローンもない。新築しようとして貯めている資金はある。まったくの思いつきで言っているわけではないんだ」

 何日か妻と話し合った。

 私の決意は堅かった。妻もわかってくれた。なんとなく不安げな顔をしていたが。

 

 私は会社を辞め妻と二人で花屋を開くべく準備を始めた。駅前通りから離れていたが店を出した。小さな店だった。地味な店だった。ホームページを作って宣伝もした。

素人の私は客商売の難しさを実感した。そのぶんやりがいも大きかった。妻はサービス業の経験があり、花に関する知識も豊富だった。また以前からフラワーアレンジメントの勉強を続けていた。それが生かせるため妻はうれしそうだった。

 一年が過ぎた。収入は不安定だったが、なんとか経営していけるようになった。

 

「あなた、ちょっと」

 妻が私を呼んだ。

「なんだい、朝早くから」

 新緑が風にそよぐ季節だった。

 妻は庭先にいた。

「これ、何かしら」

 そこに三十センチほどの何かの草が生えていたた。

「さあ、雑草だろ」

 妻はじっと葉の様子を見て言った。

「これっ、サクラの木じゃないかしら」

「桜だって?」

「今まで忙しくて全然気がつかなかったわ」

「間違いないかい?」

「ええ」

 私もここ何ヵ月か気にもしていなかった。

 妻は不思議そうな顔をしてつぶやいた。

「鳥か何かが運んできたのかしら・・・・・・あらっ、ここにもあるわ」

「・・・・・・」

 私はあの出来事を思い出した。

「思い出したぞ」

「なに?」

「それは俺が桜の実をまいたからだよ」

「ええっ、あなたが?」

「ああ、ちいさな女の子にもらったんだ」

 私は一年前の春のあの出来事を妻に話して聞かせた。

 妻は桜の木と私を見比べながら話をじっと聞いていた。

「ふーん」

 そしてその木の特徴を尋ねた。

「エドヒガンザクラの実かもしれないわね」

 俺は言った。

「でも実がそのエドヒガンザクラのものとはかぎらない。だってその実はすくなくても前の年のやつだろ。花が咲いている最中に実がなる桜なんてあるわけない」

「それにしてもなんかメルヘンチックな話ね」

 私も庭に降りた。

「ここにもあるわ」

 苗木は五つ出ていた。

 妻がうれしそうな顔で私を見た。

「じゃ、花が咲くように大切に育てないとね」

「桜って花が咲くまで何年かかるのだろう」

「ううん、実生からだとはやくて五年、六年かしらね」

「まあ、気の長い話だね」

 

 私たちはまた忙しい毎日を送った。庭の桜の木は成長した。何枚かの若葉をつけた。

 夏が来た。

 桜は少しづつ大きくなっていった。ひょろひょろと背丈が伸びた。妻は支柱をたてた。

 秋になり葉は黄色く紅葉し、散っていった。

 冬、枝の先には葉芽がしっかりと暖かくなるのを待っていた。

 春はやってきた。

 陽射しは暖かく庭に花が先を競って咲き出していた。

 私たちはいくらか時間的ゆとりができた。店は小さかったが固定客もつき、パートの人に店番を頼めるようになった。

 遅い夕食が終わった時だった。

「あなた、桜が見たいわ」

「えっ、何を」

 私は新聞から顔を上げた。

 妻は食器を台所に運びながら言った。

「あの、あなたが女の子に桜の実をもらったっていう小学校の桜よ」

「ああ、バイクで出かけたときか。そういえば今頃だったな」

 妻は、両手にコーヒーを持ってきた。一つを私の前に置いた。

「もうこのへんの桜が満開だから山沿いでも見頃じゃないかと思うのよ。で、とても大きな木なんでしょ」

 妻はコーヒーをくるくるとスプーンでかき回した。

「家の庭の桜ね、やっぱりエドヒガンザクラみたいなの。ソメイヨシノとは葉の形が違うし、山桜ともなんとなく違うし・・・・・」

「うーん。場所をよく憶えていないんだ」

「大丈夫よ、そんなの。場所は学校なんだから誰かに聞けばすぐわかるわよ」

 私はコーヒーを飲んだ。程よい苦さが広がった。

「まあ、そりゃそうだけど」

「あしたの朝、店に顔だして、すぐに出かければそんなにかからずに戻れるでしょ。ねっ、そうしましょうよ」

 

 

 翌日

 私は妻と車に乗った。

 空は曇っていた。

 肌寒い日だった。

「晴れていればバイクの方が気持ちいいんだが」

 私は空を見て言った。

「寿命が縮むから嫌よ」

 妻はバイクが嫌いだった。かつて一度だけ私の後ろに乗せた事があったが、よほど恐かったらしい。それ以来乗ったためしがなかった。

 私は西に向かった。曇ってはいたが田園には緑が生き生きとしていた。

 山は木々が芽をふくらませ始めていた。沿道にはこぶしや木蓮の莟が膨らんでいた。山桜の花が遠く山々に散在しているのが見えた。

 道は山里に入っていった。ゆるやかなカーブを描いていたがその傾斜は除々にきつくなっていった。

 空はどんよりとしていた。雲の切れる気配は無かった。

 私は記憶を頼りに車を走らせた。バイクの時に比べると何となく走りにくいような気がした。道幅が狭く感じる。

 車は妻も乗れるようにオートマだった。バイクのように走りを楽しむ車ではないから仕方が無かった。

「あなた、どう。思い出せる?」

 妻は不安げだった。道が険しくなり人家もまばらになってきた。橋を渡った。川に沿って曲がった道が続く。

「うん、そろそろだ」

 それでも私は道を憶えていた。あの時帰った道。

「えーと、ここを曲がって坂を上れば桜が見えるはず」

 ステアリングを切った。坂を上る。

「あっ、校舎が見えたわ」

 木造の校舎が現れた。が、肝心の桜が見えなかった。

「あれっ、おかしいな」

 門のそばについた。車を止めた。確かにあの時の小学校だった。ひっそりとしている。桜の木が無かった。

「木が無い・・・・・」

 私は車を降りた。桜の木のあった所に向かった。妻が後に続いた。

 小走りになった。私は立ち尽くした。妻は私が動揺しているのに気づいた。

「どうしたの?」

 そこには切り株だけが残っていた。

 妻にもようやく事態が飲み込めた。

「ここにあったの?」

「あ・・・・・・ああ」

 妻は切り株に寄っていくと手をあてた。

「枯れたために切られたみたいよ」

「枯れただって?」

 私は切り株を見た。

 年輪の内側は空洞となっていた。外周部分も養分が流れていたと思われる部分はわずかで他は黒ずんでいた。

「これではもうどうしようもなかったと思うわ」

「あの時は、花がいっぱい咲いていたんだ。枯れそうな様子は少しもなかったぞ」

「わたしも見たかったわ」

 妻が残念そうな顔をした。

「仕方ない・・・・・」

 私は校舎を見た。

 何か違和感を感じた。

 学校に人の気配がなかった。今日は平日だった。授業が行なわれていてよいはずだった。

「おい、まだ春休みなんてことあるかな?」

「いえ、そんなはずないわ」

 私は校舎に近づいてみた。

 木造平屋の校舎は老朽していた。窓からのぞく教室はがらんとしていた。

「やっぱり誰もいない」

 花壇にはヒヤシンスがまばらに咲いていた。

 雲が重くのしかかる校庭に私と妻はいた。

「休校かしら、風邪とか流行って」

「訳がわからん、誰かに聞いてみよう」

 私は校舎を離れると門のほうに歩いていった。道沿いに一軒の古い家があった。私は庭先に入って行って声をかけた。

「ごめんください」

 縁側で何かしている老婆がいた。私に気づいたようだ。老眼鏡をはずしてこちらを見た。

 私はおずおずとそばにいった。

「あのちょっとうかがいたいのですけど・・・・」

「なんじゃい」

 ガラス戸を開けて老婆が言った。

「あの学校は今日は休みですか」

 私はあたりさわりのないことから尋ねた。

「・・・・・・」

 老婆はじっと私たちを見た。

「あんたら知らんのかね」

「はあ?」

「統合になったんじゃよ。町の小学校と」

「統合ですか。いつから?」

「今月から」

 私は妻と顔を見合わせた。どおりで誰もいないわけだ。過疎化にともなう子供の減少のせいだろうか。

 私は桜のことを聞いた。

「あっ、それと校庭にあった桜の木どうなったかわかりますか」

「サクラ?」

 また老婆は私をじっと見た。

「校庭に桜のおっきい木があったと思うのですが」

 私は言った。

「ああ、あのサクラか」

「ええ、あれが見たいと思って」

「ありゃあ、いいサクラじゃった。毎年見事な花をつけて」

「本当ですね。それで女房にも見せてやりたいと思って連れてきたのですが」

「そりゃ残念じゃったね。枯れてしもうたよ」

「ええ、びっくりしました。でも二年前私が見た時は花をいっぱいにつけて」

「はて、おととし?」

 老婆が聞き返した。

「ええ、二年前、偶然ここを通りかかって見たんですよ」

「老婆は歯の無い口で笑った。

「そりゃ無理じゃ、サクラが枯れたのは三年前じゃ」

「えっ?」

「間違いない、いくら歳をとってもこれだけは忘れんよ」

「でも・・・・」

「ちょっと待っとれ」

 老婆はゆっくりとした動きで奥に引っ込んだ。

 私はまた妻の顔を見た。

 妻は言った。

「どういうこと」

「わからん」

 老婆がまた出てきた。手に写真を持っていた。

「これが、その桜じゃ」

 学校の入学式だろうか。校舎をバックに生徒が並んでいた。もっとも全部で二十人ほどしかいなかった。

「三年前の曾孫の入学式の写真じゃ」

 写真の横の方に桜が写っていた。つぼみが膨らみかけているのがかろうじてわかった。

「もう、何年も前から樹勢が衰えておった。この時は、まだ花を咲かせたんじゃ。花付きはあんまりよくなかったんじゃが」

 老婆はまた別な写真を出した。

 こんどのは運動会のようだった。子供たちが何かの競技をしていた。

「あっ」

 私は思わず声を上げた。ピントの甘い写真だが桜の木は写っていた。しかし葉は無かった。枝だけになっていた。運動会の時期に葉が全然ないということは既に枯れているということか。

「夏にはもう枯れておった。運動会のあと台風が来て枝が折れたんじゃ。そんで危ないちゅうことになり切り倒された。切ったのは山仕事をしているうちのせがれじゃ。間違うはずは無い」

「じゃ俺が見たのは・・・・・」

「わたしの若い頃はそれは見事な花を咲かせていたんじゃが」

「あれは一体?」

 私は写真の中にあの少女がいないか探した。似たような子はいなかった。

「あの、女の子いませんか。その子に桜の実をもらったのです。三年生か四年生くらいの」

 私はその桜と少女に出会ったときのことを老婆に話した。老婆はじっと聞いていた。

「ほーそりゃなんじゃろうね」

「私もなにがなんだか」

「あの桜は学校ができるずっと前からあそこにあったそうじゃよ。はて、いつ頃からあるのかは知らなんだが」

  

 結局老婆からそれ以上のことは聞けなかった。

 礼をいって私たちは車に戻った。

 妻はことのなりゆきを黙って聞いていた。私は車を動かし帰路についた。

 私は言った。

「どう思う?」

 妻はじっと前の方を見ていた。

「確かに私は満開の桜を見たんだ。間違いない」

 しかしあの老婆の話が確かならばすでに枯れて切り倒されていたはずだ。

「桜の寿命は・・・・・・」

 妻は急に言った。

「?」

「種類によってずいぶん違うわ」

「どのくらいだい」

「一番ポピュラーなソメイヨシノだと六十年から七十年と言われているわ」

 私は驚いた。

「えっ、そんなに短いのかい?あんなに大きくなるのに」

「そう、短命なのよ、以外に思うかもしれないけれど。そのぶん成長はすごく早いのよ」

「・・・・・・」

「でもすごく長いのもあるのよ、寿命が千年以上っていう桜もあるわ」

「千年か。そりゃすごいね」

「でね、あの切り株見たけどあの木は何百年もたっていたわ」

「寿命だったのかな」

「わからないけれど」

「・・・・・・」

「あなたがもらった桜の実がエドヒガンザクラだとしたら寿命は長いわよ」

 私は桜の実を手渡したあの少女を思い浮べた。

 

 

 夜、布団に入った私に妻は言った。

「ねえ」

「なんだい」

「わたし、ずっと考えていたんだけど」

「桜のことかい」

「ええ、もう枯れてしまったはずの桜があなたに見えて、で、そこに現れた女の子から桜の実をもらったのでしょう?」

「そうだよ。あれは幻覚なんかじゃなかった。現にその実は庭で木になって育っている」

 妻は真顔で私を見た。

「自分の寿命を悟った桜があなたにお願いしたのよ」

「えっ?」

「種、つまり分身を育ててくれって」

 わたしは起き上がると妻の顔をじっと見た。

「本気でいってるのかい」

「だって、そうすると話がつながるわよ」

「じゃどうして俺なのさ。それほど大事なことをまかせるなら、それこそもっと他にいるんじゃないのかな」

「いいえ」

「だって、あの地域に住んでいる人の方がいいに決まってる。そうすれば同じ場所にまた植えてもらえる」

「それは無理よ」

「なぜ」

「水の底に沈むからよ」

「なんだって!」

 私はつい大声を出してしまった。

「ダムが出来るのよ」

「あそこは・・・・・」

「知っているでしょ。もう二十数年前から話があるの」

「もう、中止になったのかと思ったよ。水だって遠くから引いてきて貯水するダムなんて。今の時代に即しているとは思えない」

「反対していた人たちもずいぶん歳をとってしまって。いよいよ建設が決定らしいわ」

「・・・・・・」

「工事が始まるのはまだかなり先でしょうけど桜にとっては困るでしょう。何百年も生きたいのに何十年かで水の底では」

「ま、桜にそういう人間の事情がわかるとすればだが」

「桜はあなたにお願いしたかったのよ」

「まさか」

「桜はあなたを待っていた」

「・・・・・・」

 妻は俺の瞳をじっとのぞきこんだ。あの時の少女に見つめられたような気がして私は目をそらした。

「あなたが適役なのよ」

「自分が?」

「そう、桜に気に入られたのよ」

「けっ、バカバカしい」

「そんなことないわ」

 妻はまだ言いたそうだった。

「あーあ、おやすみ」

 私は毛布をかぶった。

 

 

 何日かのち私は庭の桜の苗をじっと見ていた。

 すくすくと育ちすでに私の背と同じ大きさになっていた。葉が光に揺らめいた。

 この桜は何を望んでいるのか考えていた。ずっと考えていた。

 私は妻を呼んだ。

「今の時期植えかえはどうかな」

「桜?」

「うん」

「ええ、大丈夫よ。雨が全然降らないとか、そういうことが起きなければ」

「根回しは必要かい」

「そんなの大げさよ、まだ苗だから。それよりどこに植えるの」

「いいところ思いついたんだ」

「きょうは時間とれそうかな」

「わたしは平気よ。夕方までに戻ってこられれば」

「じゃあいっしょに行こうぜ」

 私は桜の苗を根がいたまないように土ごと掘り出して車に積み込んだ。

「おい、出かけるよ」

 私は車を走らせた。

 助手席で妻が怪訝な顔をした。

「一体どこまでいくの。」

「いけるとこまで」

 

 数時間後私は車を止めた。

「ここだよ」

「ここって」

「国立公園の中」

「まあ」

「どこに植えるかずいぶん迷ったんだ。家の庭では狭すぎる。変な場所に植えた場合、道路の拡張工事とかで切られたり、電線に引っ掛かるから枝を剪定するなんてことになったらかわいそうだ。

「それでここに・・・」

 私はシャベルを取り出した。桜の苗の一つを持つと歩きだした。

「ここなら開発される恐れが少ない。皆無とはいえないけど。開発が進んで十年で様変わりしてしまうような場所ではこの桜は育たないよ。」

 私は林の中の日当たりのよさそうな空間を探した。

「少女は私に言ったんだ。『桜が咲いたらいいことがある。いっぱい咲いたらいいことがいっぱいある』って」

 私は掘った穴にペットボトルの水をまいた。そして桜の苗を植えた。妻が手伝った。

 私たちは桜の育ちそうな場所を探してすべての桜を植えた。

「ちゃんと育つかしら」

 妻は不安そうだった。

「大丈夫さ。桜は育つ」

 私は桜を見た。

 桜の木はそよ風を受けて葉をひるがえした。

            

 

・・・・・了・・・・・

小説目次へ戻る