真夜中のロードスター
サイトウ
「チッ!」
ヨシオは舌打ちした。
後ろのマシンがぴったりとマークしてくるのだ。引き離すことができなかった。
直線ではいくらか引き離せるがコーナーであっという間に追いつかれてしまう。素早くシフトダウンし次のコーナーに備える。
タイヤが不気味な悲鳴を上げた。タコメーターの針が七千回転辺りで小刻みに震えている。
イロハ坂の下りはタイトなコーナーが連続する。ヘッドライトの明かりがガートーレールを白く浮かび上がらせた。
後ろに気をとられヨシオはシフトのタイミングを逃した。コーナーのインが開いた。すかさず後ろのマシンは前に躍り出た。
深紅のロードスター。
ヨシオは体勢を立てなおそうとした。
テールが流れた。
地面をこする嫌な音がしてマシンはコントロールを失った。
スピンするヨシオの目に遠ざかるロードスターのテールランプの色がちらっと見えた。そのままヨシオのS13シルビアは壁に突っ込んだ。
「おい、聞いたかよ。」
「おお、聞いた聞いた。」
「また、あのロードスターがイロハに出たんだってよ。」
コンビニの駐車場。初心者マークのついた180SXのかたわらで走り屋風の二人の若者がダベっていた。
「今度は、誰がやられたんだい。」
ゴローは180SXのカギをジャラジャラさせて聞いた。
「シルビアのヨシオがぶっちぎられたそうだよ。」
缶コーヒー片手にダチのショージが答える。
「あいつの腕で勝負しようってのがそもそも間違ってるね。」
二人は駐車場の縁石に腰掛けた。
「イロハ下りの途中で壁に張りついたそうだ。それで付けたばかりのエアロパーツおしゃかだってさ。」
ゴローは顔に寄ってきた虫をうるさそうに払い除けた。
「だいだいシャコタンしすぎなんだよ。あれじゃ族車だよ。下りじゃすぐ下回りぶっつけるに決まってるじゃん。あいつはただのハッタリやろーだね。」
ショージは缶コーヒーをぐびりと飲んだ。
「でもさ、ロードスターって千八百CCだったよな」
「いや、あれは千六百CCだよ。初期型だな、たぶん」
「それにしちゃやたら速いな」
ゴローはタバコに火を点けた。
「いつもイロハの下りしか出ないっていうから、タイトコーナーが得意なのかな」
「しかもすごく良い女だってのは本当かな?」
「うん、俺もみたこと無いけどさ。・・・やっぱ実際にみねえとなんともいえないね」
「ゴロー。おめーは勝負しねえのかよ。」
ゴローの吐き出した煙を湿り気を含んだ風が闇に運んでいった。
「今免許の点数すくねーのにそんなことするかよ。」
「ほんとーかよ?」
ショージは肩をすくめた。
「あの速さははんぱじゃないね。コーナー回ったらもういないっていう話しだぜ」
「まあ俺なら良い女かどうかバトルの最中に見る位の余裕はあるけどな」
「おっ、自信だね。まあターボの180SXで千六百CCのロードスターにあっさり負けたんじゃちょっとな」
「そりゃ、そうよ。ヘヘッ」
ゴローはタバコの灰をアスファルト落とした。
「ショージ、それより早く自分のマシン手に入れろよ」
「ううん、親父のサニーじゃドリフトどころじゃねえんだよ」
「やっぱFRで腕をみがいてコーナーを華麗にドリフトで走り抜けるってのが理想だね」
「俺も早く自分の車が欲しいなあ。父ちゃんの畑仕事手伝ってゴマすろう。」
「親をたよるな、ドアホ!」
ガランとした喫茶店「ナイアガラ」。壁には往年の名車のポスターがそこかしこに貼ってある。
ケンゾーはカウンターで茶髪をかきあげながら走り屋御用達雑誌に目を通していた。
「はいお待ち」
マスターはケンゾーの前にコーヒーとトーストを置いた。
「おっ」
雑誌片手にコーヒーに鼻を近付けくんくんする。
「やっぱりここのコーヒーは違うねえ」
「そりゃ豆が違うからね」
ケンゾーは雑誌を読みながらトーストをパクついた。
「ケンゾー君、ずいぶん熱心に雑誌見てるけど何かさがしものかい」
「タイヤとホイールを変えようと思ってるんだ」
「君も好きだねえ」
「やっぱりクルマいじってるのは楽しいっすよ。ほら、俺のAE86けっこうパーツが多く出回ってるから。そんでもって峠走るのはもっとおもしろいし」
「こう車が多くなってきたのでは、ちょっと飛ばすとすぐに前のクルマに追い付いてつまらないんじゃないの?」
「いや、場所と時間を選べばけっこういいとこありますよ。でもここらへんも有名になったのか県外のやつらがずいぶん増えたけどね」
「峠を攻めるよりサーキット行ったほうが運転上手になると思うけど」
「そりゃそうだけど。金はクルマのローンとガス代でほとんど無くなっちゃうし。ここのコーヒー飲むのが唯一の贅沢なんすよ」
マスターは皿をふきながらいった。
「ところでイロハ坂に出るロードスターの話知ってるかい?」
「おっ、マスターずいぶん情報早いね。CPUがペンティアムUでCD−ROMが32倍速だね」
「あん?」
クルマのことしか頭に無い彼の口からパソコン用語がでてきたのでマスターは一瞬面食らった。気を取り直して言った。
「なんでも、やたら速い赤いロードスターだそうじゃないか」
「そう!」
ケンゾーは食べかけのトーストを置くとコーヒーを一口飲んで話しだした。
「マスターも知ってるとおりイロハは登り専用の第二イロハ坂と下り専用の第一イロハ坂の二つに別れてて、俺達走り屋はそのワインディングするコーナーを攻める訳なんですが、ここに、最近やけに速いロードスターが現れたんですよ」
「ふむふむ」
「道幅が狭くタイトなコーナーの続く、第一イロハ坂にだけ出没して千六百CCの排気量にもかかわらず、一クラスも二クラスも上の車より速いんですよ」
「そこまでは知ってる」
「しかも、ドライバーは女性なんすよ!とびっきりの美女。髪をなびかせ、深紅のロードスターを駆るいい女。いまや、イロハに集まる走り屋達の話題はこればかりっすよ」
「へえ、女性なの」
「そうなんすよ。出没するのはかならず金曜の夜。そして下り坂にしか現れないんですよ」
「ふーん」
「いまやウワサにおひれが付きその美女は幽霊で車ごと消えてしまう、とか勝負をしかけたものは必ずマシンにダメージを受けるとか。免許取り立ての峠小僧からはったりだけのエセ走り屋までこの話でもちきりになってますね」
「金曜の夜に美女の操る深紅のロードスターか・・・」
マスターも思わずつぶやいた。
「そりゃミステリーだね」
ケンゾーは飲み干したコーヒーカップを置いた。
「まあ、そのうち俺もみてみたいっすよ。そしたらマスターに良い女かどうか教えてあげますよ」
金曜の夜。
ゴローはイロハの上りで埼玉ナンバーのシビックとバトルの最中だった。隣にはショージが乗っていた。
「おりゃ!」
ゴローは無茶なライン取りとパワーに物をいわせて強引に直線で追い抜いた。
「うわはははっ、ショージどう?俺のテクニック」
ルームミラーにシビックのヘッドライトが小さくなっていくのを見ながらゴローは言った。
「・・あのシビックただ単に日光に来た観光客じゃねえの?」
ショージが答える。
「いや、俺の走りに恐れをなしてあきらめたのさ」
ゴローは自信満々だった。
「そりゃおめえの走りみたらたいていの奴は勝負は避けるよな、危なくて」
「そうか?隣に乗ってても安定した走りだと思うだろ」
「あ、ああ」
ゴローは意気揚揚としてトンネルを抜け華厳の滝駐車場の前を通りイロハの下りに入っていった。
「もう少し骨のある奴はいねえのかな」
「たいした自信だね」
ひやかし半分でショージが言った。
後ろからけっこうな速さのクルマが迫ってきた。
「おっ、やる気充分だな。いっちょやったるか!」
ゴローはシフトダウンしてバトルを開始した。エンジン音が高まる。第一コーナーの突っ込みでそいつは横をあっさり追い抜いていった。ライトに白いボディが見えた。
「RXー7だ」
ショージが叫ぶ。
「F3CS型か!」
走り慣れしているようだ。無駄の無い動きでコーナーをクリアしていく。
「こりゃ手強そうだ」
ショージも体に力が入る。
見るまに離されていく。ゴローは焦った。
「あれっ、こんなはずじゃ!」
ゴローは180SXのステアリングをコーナーに合わせてせわしなく切る。
「ゴロー、あいつマジ速いぜ」
RXー7のテールがコーナーに消えていく。
「くそう、まだ始まったばかりだ!」
ゴローはアクセルに力を込めた。
「おっ、おい。この先路面が荒れてるぜ、突っ込みすぎるとヤバイ!」
ショージの制止をものともせず180SXはコーナーに飛び込んだ。限界を超えたタイヤはグリップを失った。
「うわーっ!」
曲がり切れずにガードレールに車体の右側をはでにぶっ付けて止まった。
「やったー」
「イテテッ」
「おい、大丈夫か?」
「ああっなんとか」
「くっ、ドアが開かねえ」
ゴローはショージといっしょに左側のドアからクルマを降りた。右側のフロントフェンダー部分からリヤハッチにかけてボコボコだった。
「こりゃ、ひでえな・・・・」
「うわーん、俺の180SXが!」
途方にくれる二人の脇に一台のクルマが近付いてきた。スピードを落としている。ショージが眩しそうにライトの向こうを見た。
「あっ、ロードスター!」
「えっ?」
深紅のロードスターは停止するかに見えたが二人ともなんともないのを見るとそのまま行ってしまった。オープンボディからロングヘアーが見えた。
「あっ、行っちゃった」
「本当に女だ!」
「せっかくロードスターが出たってのに」
「とにかく下にいこう。ここにいてもしようがねえ」
「走れるかな」
「フロントぶつけなかったのがせめてもの救いだ」
180SXは走りだした。ボンネットからはでに擦れる音がした。
「だめだ。タイヤがフェンダーに当たってる。ステアリングが切れない」
「とりあえずゆっくりいこう」
すごく遅かった。さすがにショージもゴローの心中を察するとかける言葉がなかった。
イロハのカーブを知らせる看板が『あ』を過ぎたところでRXー7が進行方向とは逆向きで止まっているのが見えた。
「あっ、さっきのF3CSだ!」
近寄ってみるとリヤ部分がはでにつぶれていた。
「おーい。生きてるか」
ショージが声をかけた。
「ああ、元気だよ」
反対側の暗やみから男がぬっと出てきた。ケガは無いようだった。
「・・・・ロードスター」
男は悔しさをかくすようにつぶやいた。
「あのロードスター・・・とてつもない速さだ」
男はゴローの車に目を戻しその異変を見て言った。
「あんたもロードスターにやられたのか!」
「あ・・ああ」
自爆したとは言えない。ゴローはあいまいに返事した。
ゴロー達は呆然とロードスターの去っていった方角を眺めた。
行きつけの喫茶店「ナイアガラ」でケンゾーは耳のピアスを光らせつつマスター相手に金曜日のロードスターの話をしていた。
「マスター聞いたかい?」
「180SX乗ってるゴロー君のことかい?」
「そりゃ、先月のことっすよ。先週の金曜日また出たんだよ」
「で」
「今度は埼玉から来た自称フェラーリの鷹って奴が挑戦したんだって」
「いくらなんでも、イロハの下りでフェラーリってのは無謀だねえ。でそいつのはまさかF355なんて最新モデルじゃないよね」
マスターは容器の底に残っていた豆をかき集めるとミルで挽き始めた。
「まさか。328に乗ってきたんだけど、いざ勝負ってときに、ロードスターは下り坂にしか出ないってかんじんなことを知らなかったらしいんですよ、これが」
「・・・」
マスターはコーヒーをドリップしながら話の続きを聞いた。
「そいつ、上りだけ勝負するつもりだったんでずっと入り口のパーキングでロードスターが現れるのを待ってたんだって」
「それでどうなった」
「夜が明けましたとさ」
「なんだそりゃ」
あきれたマスターは自慢のオーディオを操作して曲を変えた。それまで流行歌だったのが、ハードなギターのリフを刻みだした。
「なんですか、これ?」
マスターは、暖めていたカップにコーヒーを入れながら答えた。
「ディープパープルのハイウェイスター。七十年代物」
「へぇー」
「ギター弾いてるリッチーブラックモアてのがいいんだよね」
「マスターが演歌以外の曲知ってるなんて以外だね」
「マーシャルのアンプから流れるストラトキャスターの音色ときたらもー、いまのガキ向けサウンドとは隔世だね」
「マスターにこういう趣味があったとはね」
「こうみえても、昔はギターをもたせりゃちょっとは名の知れたミュージシャンだったのさ」
「だいたい、実力はわかりますけどね。食えなくて茶店のマスターになった」
「正解」
マスターはコーヒーをケンゾーの前にだした。彼は湯気に鼻を近付けくんくんした。いつものクセである。
「うん、ここのコーヒーは香りが違う」
「私の特性ブルマンブレンドだからね」
残った豆を集めただけとは言わない。
「マスター、俺こないだ缶コーヒー買ったときおおボケかましちまったんだよ」
「なんだい」
「出張の帰りに東北自動車道下りの羽生サービスエリアで休憩したわけよ。そんで、眠気覚ましにコーヒー買おうと思って自販機みたら『ブルーアンドマウンテン』てのがあるわけよ」
「ほう」
「こりゃ、買うっきゃないってんで買ったわけよ」
「で、どうせほんの少ししかブルマン入ってないだろう思いつつ表示をみたら『この製品にブルーマウンテンは入っておりません』だって」
「・・・」
「はっきりいってサギだね。こりゃ」
ケンゾーはズズッと音をたててコーヒーを飲み込んだ。
「ま、ここのコーヒー飲みながらする話じゃなかったね」
マスターは思った。これからは、ケンゾーくんに出すブルマンにも少しは本物の豆を
いれてあげようと。
外で太い排気音が聞こえた。入り口のカウベルが鳴り、ジュンヤが入ってきた。
「あっ、ジュンちゃん」
ジュンヤはマスターに手であいさつしてケンゾーの隣のカウンターに座った。
「マスター、相変わらず客いないねえ」
「平日の夜に喫茶店が混んでどうする」
「いつものブレンドね」
「はいよ」
ケンゾーはさっそく、金曜日のロードスターの話をしだした。彼もうわさを少しは聞いているようだった。
「ジュンちゃん、ロードスターはどうして下り坂にしか出ないんだろうね」
「金精峠越えて群馬県側からやってくるとか・・・」
マスターが口をはさむ。
「どこかにかくれてるんじゃないの。まあ、上りだと千六百CCじゃいくらがんばっても排気量のでかいのと勝負するのはつらいしね。腕より、マシンの差が大きい」
「ところで、ジュンちゃんは勝負しないの」
「俺が、勝つとわかってる相手に勝負すると思う?」
「そりゃ、そうっすよね。ランサーエボリューションだったら、イロハだってどこだって無敵ですよね」
「あたりきよ。ハッハッハッ」
本当は業界最長百一回ローンで買ったのでもったいなくて峠を攻めるなんてとてもできないのだった。
ケンゾーはコーヒーをズズッと飲み込んだ。
「しかし、とっても美人だってうわさですよ。幽霊でもいいから彼女にしたいなあ」
ジュンヤはケンゾーの顔を意味ありげに見た。
「そうか。じゃ俺が手助けしてあげよう」
「えっ?」
「つまりだな、おまえのハチロクを俺が運転する」
「げっっ!」
ケンゾーは飲み込んだコーヒーを吹き出した。
「で、俺が勝つ。そしてクルマを運転してたのはケンゾーってことにする。するとロードスターの彼女はおまえに一目惚れとなる」
「俺のハチロクでですかあ」
ケンゾーははっきりいってまずいと思った。コーヒーのことではない。
「この前タイヤとホイール替えたばかりなんすよ」
「おっ、なおさらいいじゃねえか。ロードスターとハチロク。イロハの下りがこんなに似合うマシン同士の対決はないね」
ジュンヤはすっかりその気になっていた。ハチロクなら万一負けてもわかりゃしねえし、そんなにいい女なら俺からモーションかけよう。
「ケンゾー、今度の金曜日にしようぜ」
「でも今度の金曜日は十三日ですよ。縁起悪いっすよ」
ケンゾーは何とか理由つけて逃げようとした。純一は確かに速い。けどよくぶつける。過去に何台も車を大破させている。無理してやっと手に入れた俺のハチロクが・・・。
「じゃケンゾー金曜日ね。上りのパーキングで待ってるよ。いつもの時間」
「はあ・・・」
「マスターごちそーさま」
そう言うとさっさと行ってしまった。
カウベルの音を残して純一はドアの向こうに消えた。ランエボの排気音が遠ざかっていく。
マスターはカップを片づけながらケンゾーに言った。
「ケンゾーくん。悪いこと言わないからイロハ攻めるのはほどほどにしときなよ。でないと恐い目に会うよ」
「マスター忠告ありがとう。ごちそうさま」
ケンゾーはのろのろと席をたってドアに向かった。
「ケンゾーくん」
マスターは背中に声をかけた。
「なんすか?」
「お会計まだだよ。ジュンヤ君の分も払ってね」
金曜の夜。
曇り空に星は無く雨が近いこと告げていた。
ケンゾーが愛車ハチロクで、イロハ坂のパーキングに行くともうジュンヤは来ていた。
金曜にしては珍しく走り屋らしき車はなかった。
ジュンヤはランエボから降りてきた。
「よう」
「ジュンちゃん、きょうはなんだか静かだね」
「雨が降りそうだからな」
「やっぱり十三日だからじゃないすか?」
「走りやすくていいんじゃない」
いまひとつ乗り気でないケンゾーに比べジュンヤは気合いが入っているようだ。
「ケンゾー、ホイールとタイヤ変えたっていってたな。どれどれ・・・おっBBSにピレリ!」
ジュンヤはじっくりとホイールを見た。
「BBSじゃねえな。なんだ!885って?」
「いやその・・・」
「タイヤもピリリーだって?」
「ちょっと、予算の関係で・・・」
「・・・まあいいんじゃない、ケツ振るのに。ケンゾーのハチロクに合ってるよ」
ジュンヤはどうでもいいと言う感じだった。
「いいんすよ、これで充分なんだから」
ケンゾーはますま気分が滅入ってきたがとにかくハチロクの助手席側に乗り込んだ。ジュンヤは運転席に乗り込むとポジションを決め4点式シートベルトを着ける。二、三度アクセルをあおって空ぶかしするといきなり走りだした。ケンゾーはあわててシートベルトを締めた。
「では軽く流して下見といくか」
ジュンヤはイロハを走りだした。一方通行の上り路面は二車線あり明智平パーキングまで、右側が普通車専用、左側が路線バスと二輪専用というふうに別れている。
「ちょっと二速の入りが悪いな、シンクロへたってんじゃねえの」
ジュンヤはシフトレバーをガコガコ操作した。
「ジュンちゃん、あんまり無理に入れないでよ」
「ああ、わかってるよ」
「今度、オーバーホールしようと思ってんだ」
しかし、予定はあってもケンゾーに金は無かった。
「しっかし、ちょっと坂がきつくなるとてんで遅いね」
左カーブの立ち上がりで、ギアを二速から三速にシフトしながらジュンヤは言った。
「上りで勝負するわけじゃないしいいじゃないすか」
路面は乾いていた。ところどころ濡れているが気にするほどでもない。クルマはほとんど走ってない。それでも一台けっこうなスピードで後ろからせまってきた。
「おっ、やっと速そうな奴がきましたね」
「どれ、先に行かせよう」
そいつは直線で左から抜いていった。スープラのツインターボだ。シルバーのボディがライトの光に浮かび上がる。
「さすがにストレートは速いっすね」
「ストレートのみだな、あのスープラ野郎。コーナーでブレーキ踏みっぱなしだ。あれじゃすぐブレーキがフェードしちまう」
「ジュンちゃん、追っ掛けようぜ」
「やめやめ、あんなのかまうより問題のロードスターを探すのが先さ」
やがて明智平を過ぎた。対面通行になりトンネルを抜ける。中禅寺湖のそばを通り右折して下り坂に向かう。
タイトな急カーブが続く。ガードレールの向こう側は闇。断崖絶壁だ。ジュンヤはとりあえず流した走りで下りていく。
「こっちもブレーキを温存しとかないとな。ケンゾー、どうせブレーキパットなんて換えたことねえだろ」
「そんなことないっすよ、ノーマルタイプですけど換えたばっかですよ」
「なら安心だね」
車検で全然知らないうちに取り換えられていて金払うときに明細書見て気がついた、なんてことは言わない。
ふもとまで下りた。また上り坂を走り始める。
「ジュンちゃん」
「ん?」
「今度上まで行ったらそこで待ってたほうがいいんじゃないすか?」
「そう?」
「こうやって流してたってどうせ上りには出ないんだし、下りで張ってたほうがいいっすよぜったい」
「まあ、それもそうだな。そうしよう」
この調子でロードスターが出るまで走り続けられたら完璧にガス欠だと思っていたケンゾーは正直ほっとした。
華厳の滝駐車場からイロハの下り坂に向かう途中で車を路肩に寄せる。ライトをポジションだけにする。
あたりは闇、空も一雨きそうな雰囲気。風は湿り気を含んでいる。妙に生暖かい風だ。時々通りすぎる車はあるが、目的のロードスターはなかなか来なかった。
「あーあっ、全然こねえなあ」
ジュンヤが大口開けてあくびした。
「今日は出そうもありませんね」
「しょうがねえ、あきらめて出なおすか」
後からライト。低い排気音で近付いてきた。追い越していく。さっきのスープラだ。
「よし、あいつをいっちょかまってやるか」
ジュンヤは車を動かし始めようとした。
突然、カン高い排気音が迫ってきた。あっという間に走り去っていく。深紅のオープンボディ、流れるロングヘアー、ドライバーは女性だ!
「でた!ロードスターだ!」
「待ってました!」
ジュンヤはタイヤを鳴らしハチロクを急発進させた。ケンゾーは頭をヘッドレストにしたたかぶつけた。
「いてっ。」
「よくつかまってろよ!」
タコメーターの針がレッドゾーンに飛び込む。シフトレバーにかかった指がすばやく動き、ギアをシフトする。加速。スピードメーターは3ケタの数字を刻む。と思う間もなくコーナーが迫る。
フォン、フォーン
ヒールアンドトウでエンジン回転を合わせ4速、3速、2速と減速しコーナーに入った。立ち上がりでフル加速。ロードスターのテールランプが見える。その先にスープラ野郎もいた。
下りイロハ坂は狭い。追い越せる場所はそうあるもんじゃない。ましてや初めての相手の場合よく力量を確かめておかないと、勝手にクラッシュしてこっちが巻き添え食ったりする。ロードスターもバトルに値する相手かどうか様子を探ってるようだ。
「追いつくぜ!」
ジュンヤの操るハチロクはロードスターとの差を一気につめた。
「ジュンちゃん、スープラって下りも速いんじゃない?」
シートにへばりついたままケンゾーが言った。
「乗ってる奴の腕しだいだね。ラインどりもひどいしブレーキは踏みっぱなしだし。それより問題はロードスターだ。」
ジュンヤはロードスターの背後に迫り動きをよく見ていた。
「そんなに良い女で?」
「腕の話だよ」
「へっ?」
「相当できるぜ。あのロードスター。全然余裕で走ってやがる」
「・・・」
「サスもイロハに合わせてセッティングしてあるみたいだ」
「他にも何か」
「エンジンもチューンしてあるかも知れん」
「よく分かりますね」
「まあな」
ジュンヤは思いつきで話していた。どうせケンゾーには分かりっこないんだし。ケンゾーはジュンヤの分析に感心していた。
後を気にしだしたスープラはさらに速度をあげた。オーバースピードでコーナーに進入しインががら空きとなった。ロードスターはそのチャンスを逃さなかった。鋭くインに突っ込むとスープラの前にでた。
「ジュンちゃん、すごい突っ込みっすね」
「おれ達も、ロードスター追っ掛けるぜ」
ジュンヤの操るハチロクも続いて前にでようとした。しかし、スープラ野郎簡単に譲らない。直線がやたら速いので立ち上がりで逃げられてしまうのだ。
「くそーっ、うっとうしい奴ですね」
「もうブレーキがつらくなってるはずだ」
ジュンヤの言ったとおりスープラ野郎のコーナーリングはかなり無理をしていた。バランスを崩している。
次のコーナーだった。スープラはついにブレーキがフェードしたらしい。激しいスキール音と共にスピンした。2回転してガードレールに尻をヒットして止まった。そのわきを走り抜ける。
「自滅だね」
「巻き込まれなくてよかったですね」
ケンゾーはちょっとびびりつつ答えた。
「ちゃんと避けられるだけの距離開けてたよ。あんな走りじゃしたまで持つわけない」
ケンゾーはジュンヤの落ち着いた声に安心した。
「ジュンちゃん、でもロードスターに追い付くのはもう無理だね」
「そうでもないぞ、よく見てみろ」
「!」
ケンゾーか前を見ると、なんとロードスターがコーナーの前方にいる。
「おれ達を待ってたらしい・・・上等だぜ」
ジュンヤの顔つきが変わった。猛然とダッシュする。タイヤの悲鳴がコーナーに響く。はっきりいってケンゾーはびびった。すり減るのはタイヤだけじゃ無く俺の神経。それとも命か・・・。
じりじりとロードスターとの差を詰める。ロードスターはストレートはそれ程じゃないが、コーナーリングがとにかく速い。道路のアウト側は砂が浮いているし、イン側は勾配が急になっていて寄り過ぎれば下回りをヒットしてしまう。余程走り慣れているのかぎりぎりの所をコントロールして走っていく。
「くそっ、やるじゃねえか」
ジュンヤの操るハチロクははでにテールを振って追っかけた。横Gがかかるたびにボディがぎしぎし嫌な音をたてた。
ドアノブにしがみついたケンゾーは思った。こんなことなら助手席も四点式シートベルトにして、ロールバーもくっつけて、エアバック助手席用もつけて・・・・。そうだ戦闘機についてるみたいな緊急脱出装置も付け・・・付くわけないか。
ついにロードスターとテールツーノーズ状態になった。ハチロク必死の追い上げ。隙をうかがうが、無駄な動きがロードスターには無い。
「ギア比が合わねえ、一速と二速が離れすぎだ。ケンゾー、今度はクロスミッション入れろよ」
ジュンヤはインによりすぎた。下回りをどこかぶっつけた。
ガゴッ!
「ジュ、ジュンちゃん、その前に俺のクルマ壊さないでよね。もう水温計温度上がりすぎだよ」
コーナーのたびにロードスターを操る女性の姿が見える。どう見たってばりばりの走りをするようなカッコに見えない。ジュンヤの走りにますます気合いが入る。
下りカーブも終盤になってきた。第四二カーブの表示板『し』の文字がケンゾーの目に飛び込む。ケンゾーはもう緊張のしすぎで息が苦しい。汗が目に入った、痛い。
「このままじゃ、だめだ」
「ど、どうすんの?」
「次のコーナー死ぬ気で突っ込む」
「そっ、そんなことしたら、本当に死んじゃいますよ」
「勝負!」
ジュンヤは三速から二速へシフトダウンして猛然とコーナーに突っ込む。はでなスキール音。テールを振りつつインを取る。半クラでエンジン回転を落とさないようにし、猛然と加速。
「やった!」
「並んだ!」
いまのでクラッチ滑るようになったみたい。まあいいか、俺のじゃないし。とジュンヤが考える間もなく次のコーナーがせまる。
「ジュ、ジュンちゃん。並んだまま突っ込んだら、アウト側の俺達超やばいっすよ」
「くっ、前に出られねえ」
ロードスターがちょっとでもアウトにはらめば、ガードレールと仲良くするしかない。 コーナーに並んで突っ込む。ケンゾーはガードレールがすぐ隣に見え完全にパニック。ジュンヤの隣にロードスターがいる。このままクラッシュか。その前にフルブレーキで先にいかせるか?
キキーーッ
「!」
先にブレーキを踏んだのはロードスターのほうだった。ついに前にでた。ロードスターはまだすぐ後ろにいる。
「ジュンちゃん前にでましたよ」
「まだ、終わったわけじゃねえ」
『ん』の文字の看板を通り過ぎた。イロハ坂は終わったがこの先の短い橋を渡るまでわからない。ジュンヤはスピードを緩めなかった。しかしロードスターはもう仕掛けてこなかった。
「勝ったぜ!」
「ジュンちゃんやったね!」
ジュンヤは上りイロハ入り口のパーキングにハチロクを入れた。ロードスターも後に続いて入ってきた。そしてハチロクの近くに止まった。
「ジュ、ジュンちゃん。ロードスターが・・・」
ケンゾーは、ジュンヤより先にクルマから降りようとしたが、バトルの最中ずっと足を踏張って乗っていたので、体がこわばっていて出遅れた。
「ヘイッ、彼女、ずいぶん運転上手いね」
ジュンヤはロードスターに近づいて言った。
ロードスターのドアが開き彼女は降りてきた。長い髪、タイトスカート。さすがにハイヒールははいてないが素晴らしいプロポーション。シルエットになっていて顔は見えない。彼女は口を開いた。
「ステキな人ね。見とれてたら抜かれちやったわ」
思ったよりハスキーな声。
「わたしより速いなんて、罪な人ね」
ちょうどライトのある位置まで彼女が来た。化粧が濃い。なんか変だ。のどぼとけがでっぱってる。ひげがある。スカートから伸びる足を見た。すね毛もある。
「げげっ、女じゃない?」
「いいじゃないのそんなこと」
ジュンヤの背中を冷たいものが走った。
「それよりわたしとドライブしません?」
カラダをくねらせてウインクした。
「やさしく運転教えてえ。うふーん」
「ぎえーっ」
ジュンヤは叫んだ。
「ジュンちゃんどしたの?」
硬直した体をほぐしながらケンゾーがやってきた。
「ケンゾー逃げろ!」
「えっ?」
ケンゾーの腕をひっつかむとジュンヤはハチロクに逃げ戻った。後ろでオカマは叫んでいる。
「逃がさないわよーっ。やっと速い男見つけたんだから。まってーっ」
ジュンヤはあわててエンジンをかけた。
事情がわからずぼけっとしているケンゾーを見てジュンヤは言った。
「ケンゾー、今度はひどいことになりそうだ」
「?」
ハチロクを急発進させた。バックミラーを見るとロードスターがすごい勢いで追い掛けてくるのが見えた。
「ジュンちゃん、逃げるってどこへ?」
「あいつ!ロードスターの追って来ないところにきまってるだろ!」
ジュンヤはイロハの上りに向かった。
「ロードスターは確か上りには姿を見せないってウワサだったよな」
「そう聞きましたけど」
すごい勢いでカーブに突っ込む。無理やりシフトダウン。完全にエンジンがオーバーレブしている。
「ジュンちゃん、なにそんなに焦ってるんですか」
ジュンヤは後ろを見るのが恐かった。
「・・・・女じゃなかったんだよ」
クラッチペダルを蹴っ飛ばしてシフトレバーを叩き込む。激しいギヤ鳴りがした。
「えっ?・・・だって」
「俺は見たんだ・・・・」
「ジュ、ジュンちゃん」
ジュンヤは無我夢中で走った。後ろを見ていたケンゾーが話しかけた。
「ジュンちゃん。ロードスターは後ついてきませんよ」
「・・・・・・」
「ジュンちゃんてば!」
「えっ?」
「誰も追ってこないっすよ」
ジュンヤはルームミラーを見た。闇があるだけだった。アクセルを緩めた。ロードスターが追ってくる様子はなかった。
「やれやれ、なんてこったい」
「どうしたんですか」
「あとでゆっくり話してやるよ。・・・明智平のパーキングまでいったらな」
ジュンヤはアクセルペダルを踏み込んだ。エンジンルームで異音がした。
「ん?」
エンジンが突然止まった。惰性で走る車を路肩に寄せて停めた。
「あれっ、おかしいな」
二人はあれこれ原因を調べた。わからなかった。ハチロクはイロハ坂の途中で息絶えた。
雨が降りだした。ハチロクのボンネットに落ちた雫はゆらゆらと霧のような湯気になって空に昇っていった。
「おい、聞いたかよ」
「おお、聞いた聞いた」
「また、ロードスターが出たんだってよ」
客のいないがらんとした喫茶店「ナイアガラ」でバナナジュースを飲みながらショージはゴローに言った。
「今度は誰がやられたんだい?」
ゴローはスパゲッテイにタバスコと粉チーズを間違えてかけていた。
「ケンゾーのハチロクだってさ」
「へえーっ。よく勝負したね。で、ケンゾーはどうなった」
「ん、本人が言うには勝ったっていうんだ」
ゴローは顔をしかめた。そしてあわてて水を飲んだ。
「んっ、どしたの」
「い、いや。ケンゾーがロードスターに勝ったって?」
疑わしげな目つきでゴローはショージを見た。
「その後エンジンがいかれちまってレッカー車だってさ」
「そんなことだろうと思ったよ。それで」
「タイミングベルトが切れたせいで、バルブとピストンがぶつかってカムシャフトやコンロッドまで変形しちしまったって」
「うわっ、重傷。それってエンジン降ろさなきゃだめだな」
「廃車にしたほうが安いね。きっと」
「俺も悲惨だと思ったけど、ケンゾーはもっと悲惨だな」
「保険も入ってないって」
「本当にそんなんでロードスターの前走れたのかな。あいつの腕で」
ゴローは他人に対する評価だけは厳しかった。
「ケンゾーったらおかしなこといってんだよね」
「どんな」
「ロードスターをドライブしてたのは女じゃなかったって」
「?」
ショージはゴローに顔を近付けて小声で言った。
「なんと、オ、カ、マ」
「ぷぷーっ」
ゴローはスパゲッティを吹き出した。
「わっ汚ね!」
「ゴメン、ゴメン・・・でもさ。俺達も見たけどどうみたってありゃ女だったよな」
「うーん。あれが男だったとしたらかなり恐い」
「ケンゾーの奴、別なロードスターと勘違いしてんじゃねえのかな」
「それともハチロクがパタクレになっちまったショックで幻覚みたとか」
「だいたい、ケンゾーの腕であのロードスターに勝てるわけねえよな」
「そう、RXー7クラスだって追い越せないって言うのに千六百CCの4AーGエンジンで、どノーマルじゃなあ・・・」
ゴローはマスターを呼んだ。
「マスター水くれ」
マスターが代わりの水を持ってきた。
「ゴロー君。車はどう?」
「もう少しで直ってくるんですよ」
「そりゃ、よかったね」
「ところで君達ケンゾー君の走り仲間だったよね」
「ええ、そんなにいつもいっしょってわけじゃないけどたまに峠で会いますよ」
「なんでもロードスターとバトルするって張り切ってたんだけとどうなったか知らないかい」
ゴローとショージは顔を見合わせた。そしてさっきの顛末をマスターに話した。
「というわけなんですよ」
「ふうーん。その分じゃ当分うちの店には来てもらえそうにないな」
二人は帰っていった。
食器を片付けながらマスターは思った。今度ケンゾー君がやってきた時には本物のブルーマウンテンをごちそうしてあげようと。
了